「死化粧」
■ 初夏に入ってても曇りの日は少し肌寒い。 特に目的もなく河川敷を歩いていると、川辺にタバコの箱が草むらの影に落ちていた。拾い上げてみるとまだ中身が数本か入っていた。自分には必要のないものだと思っていたので、買い求めることこそしなかったものの、興味がないわけではなかった。 たまたま別の目的(いろいろである)に使用するためにベルトポーチにジッポーを入れていたことに思い当たった。タバコを一本取り出して口にくわえて、火をつけてみた。舌に苦さが伝わる。 煙を吸い込んでみて得た結論としては、とてもまずかった。思わず咳き込んでしまうところだった。 こういうものを楽しむ人の気持ちがいまいち理解できないなあ、と躁鬱さんは思った。成長して大人になれば、これの味がわかるようになるのだろうか。自分にはそんな機会は訪れないだろう。 吸い込まない分にはさほどの害もなさそうだったのでとりあえずそのまま吹かしつづけてみる。川の水面にタバコをくわえる自分の姿が映った。案外絵になっている。おそらく、愛好者の五割以上はかっこつけなのだろう。 「未成年が喫煙とは感心しねぇなぁ〜」 背後から声をかけられた。香水のきつい匂いに振り返ると、そこには何の気配もなく三人の少女がたたずんでいた。全員年のころは躁鬱さんと同じ十代半ばか、それよりいくばくか上下する程度だろう。 そのうち両脇の二人は全身を黒いボンテージファッションに包み、首輪につながれていた。無表情のその姿は奴隷を連想させる。 その首輪の鎖を腕輪にしてつないでいるのが中央の、深いスリットの入ったゴシック・アンド・ロリータをまとった、小さく華奢な少女だった。ゴシックとは不釣合いな右手のキセルと派手な唐傘が目を引く。何より異様なのは匂いだった。複数の種類の匂いの強いオーデが混ざっているせいか、芳香とは程遠かった。例えるならば、そう、まるで死体の腐った臭い。それに加えて、足や手や首に巻かれている赤く滲んだ包帯や白塗りの顔が死への耽溺を思わせる。 三人に共通しているのは、いずれも頭から奇妙な金属突起――通称アンテナが生えているという事だった。 「どう見ても君は私より年上には見えないけどね」 「オレのこたぁ気にするなよ」 躁鬱さんよりも少し背の低いアンテナ付きのリーダーは、ズー・ハルマと名乗った。 「で、ハルマさん、私に何か用なの。まさか喫煙マナーを注意しに来ただけとは思えないけど」 「挨拶をしに来たんだよ。悪役は正々堂々としなくちゃあいけない」 社会にさりげなく潜んでいるアンテナ付き程度としか相手にしていなかった躁鬱さんにとって、彼女は明らかに難しい存在だった。 「最近うちの眷属をかわいがってくれたのは手前だろ。お前らの間じゃあ<スレイブ>なんて品の無い呼び方をしているらしいがね」 「……意趣返しでもしようっての?」 ハルマはびりびりと笑った。 「違うぜ。アンテナもついていないのにアンテナ人間と互角以上に渡り合えるその強さ、自分と同じ年頃の人間を躊躇無く惨殺できるその精神、興味あるんだよなあ」 言葉と共に腕の鎖を放すと、脇の二人の従者は放たれた矢のようにアンテナ狩りの少女へ飛び掛かった。 ◆ ささやかな話し声と、それよりも大きなパチリパチリという乾いたプラスチックの駒の音が教室に響いている。 「それでお前、躁鬱さんとはどこまで行ったんだよぉ〜」 難しい局面に入って考え込んでいるところを、手持ち無沙汰になっている対局相手――富士河がしきりに話しかけてくる。うっとうしくてしょうがない。 「別に何もありゃしませんって、富士河さん。二人で食事に行っただけだし」 盤面に視線を落としていればこの男と目を合わせなくていいので実にいい。 「嘘つけえ。若者二人がムードたっぷりの場所で食事したあとに行くところと言えばホテルぐらいしかないだろ! セックス! アンド! ドラッグ! アンド! バイオレンス! うおおおれも躁鬱さんとしたい!」 富士河は椅子を蹴飛ばして立ち上がりながら高らかに欲望を吐き出した。 盤面しか見ていなくても、部員の生暖かい視線が集まってくるのは感じる(「またゴッドファーザーが面白い事言い出してるよ」)。なんで私はこんな自由奔放な知り合いしかいないんだろうか。 「前から何度も言ってますけどやめてくださいよそういうの! 第一私と躁鬱さんは同性ですよ。百合姫の読みすぎなんじゃないですか? 気持ち悪い妄想を押し付けるのはやめてください!」 富士河は強く机を叩いて立ち上がる。盤上の駒がカタカタと揺れた。 「キモいのはお前らだよ! 要介護者とヘルパーみたいにベタベタといちゃつきやがって。あいつおれの気配を察知すると猫みたいにどこかに姿をくらますんだぜ。その悲しみがお前にわかるってのかよクラシック!」 彼が不審者丸出しで彼女のクラスの教室の前を右往左往していていれば、風が吹けば遅刻し雨が降れば欠席届を出す彼女が来るわけも無かった。 言いたい事を吐き出して満足したのか富士河は「……まーいいや」とつぶやき、音を立てて椅子に座りなおした。 「じゃあまあ、このこともお前には関係ないよね。おれ、札束を数えながら『楽園の抱擁』から出てくる躁鬱さんのこと見ちゃったけど」 今度はクラシックが椅子を蹴飛ばす番だった。 「え?! なにそれどういうこと詳しく聞かせてください富士河さん!」 「ほー、気になるんだやっぱり。そうだな、写メで躁鬱さんのパンツを送ってくれれば教えてやってもいいぜ。クラシックなら余裕だよなウヒャヒャヒャヒャアバッ」 将棋盤と三十個あまりの駒が富士河の顔面に襲い掛かった。 ■ 「なんだ、もうおしまいか? アンテナ殺しもなかなかあっけないな」 人間殺しの少女は口の中に溜めていた煙を人間殺し殺しの顔に吹きかけた。煙を浴びて不快そうな表情を浮かべた彼女の上に乗ったまま顔を鼻先まで近づけ、パイプを持たない左手を蛇のように制服のスカートの下に潜りこませた。 躁鬱さんの目が見開かれるのとは対照的にハルマの瞳は細まる。 「楽にしてな。痛くも怖くもない。ちょいと脳の髄が真っ白になるだけだ。終わったころにはオレが傍にいないと不安で不安でしょうがなくなる。寝ても覚めてもオレのことしか考えられなくなるんだ。絶対的な存在に隷属するのって、気持ちいいぜえ」 ハルマは、躁鬱さんと目を合わせたまま細い舌をちろりと見せ、 「やっぱやめだ」 二人の唇が薄紙一枚の距離まで肉薄したところで、ハルマは唐突にスカートから左手を抜き、上体を起こした。躁鬱さんはここで今まで彼女のアンテナは一度も微動だにしていないことに気づいた。 「みずみずしい果肉だと思ったらゴム製だった、なんてひどいにもほどがあるぜ?」 従者の手からキセルを受け取り、ハルマは悠々と一服した。 「こんなにやってて楽しくない女は初めてだよ。オレの手で一から躾けるってのもアリなんだが、今そう言う気分じゃないんでね」 笑いのようにゆがんだ表情で熱されたキセルの火皿を躁鬱さんの頬に押し当てた。頬がやけどで変色していく様子を、加害者と被害者はつまらなさそうな目で見ていた。 「な?」 ポツポツと降り始めた雨のしずくが頬に落ちた。 ◆ (あーもう、傘持ってきてないのに) 小雨が降り出して来た。 クラシックは鞄を傘がわりにし、足を速めて帰路を急ぐ。 (でももう少しで家に……ってあれ?) ふと、我に返ってあたりを見渡すと、少し前から家とはまったく反対の道を走り始めていた事に気づいた。 いくら方向音痴とはいえ、まさか学校から自宅に帰る道を間違えるとは。自分はもうおかしいのかもしれない。きっと今日富士河に言われた事をずっと考えながら歩いてきたからだろう。 さっさと引き返そう――踵を返した。いや、返そうとした。何かの予感がそれを止めていた。 振り返りなおすと、数メートル先の草むらに自分がついさっきまで考えていた少女が転がっていた。 「ちょっと! なんでこんなところで寝てるの?」 <マスター>の支配圏内から逃れても、アンテナ殺しはいまだに天を覆う雲の向こうを見つめていた。 「クラシック、煙草を吸ったことってある?」 「え、ないよ」 「多分私は煙草を吸わないと思う。それは私にとって何の価値もないから。価値が生まれる日は来ないから」 本当に、いつもどおりの調子で理解の難しいことを並べていたのがクラシックには不快で、彼女らしくもなく土を蹴って叫んだ。 「わけがわからないよ。本当に風邪引くよ! 立って、立ちなさい!」 「はい」 あまりにもすんなりとよどみのない動作で立ち上がったので、クラシックはまたこの奇人にペテンにかけられているのではないかと疑ったが、手を取ってみると確かに寒さで震えていたので、それだけは信じることにした。 ■ 両親が家を空けているのは不運なのか幸運なのか、それはまあ置いておくとして。 シャワーが浴室の壁を叩く音を遠くに聞きながら、クラシックは残酷な想像を育てていた。 もし、あのまま躁鬱さんに気づかず、あるいは気づかないフリをして普通に家にたどり着いていたら、今頃彼女はどうなっていただろう、と。 そこまで彼女もバカではあるまい、たいしたことにはならないだろう。そう、それぐらいやってもいいはずなのだ。別に自分が直接手を下すわけじゃあないのだ。普段は考えないようにしているが、躁鬱さんに対する憎しみは幼いころから新潟の雪のように積もっていた。 アンテナを抜かれた挙句どことも知れぬ路地に置き去りにされた事。石鹸をチーズケーキだと言って食べさせられた事。私の**を『お医者さんごっこ』だとかなんとか言って**たこと。(記憶の炎上)。 私と躁鬱さんがなんだって? 不愉快だ。 「あがったよクラシックー」 不愉快さの主犯である少女がフローリングに足跡を残しながら出てきた。 「ちょっと、なんで体拭かないでこっち来てるの! 床濡れちゃうでしょ! 替えの下着脱衣所に置いておいたじゃない! ああもう!」 面白くない! クラシックは苛立ちを隠そうともしない顔で全裸の躁鬱さんを脱衣所に押しやった。もどかしさのあまり自分で身体を拭いてやろうかと思ったが、やめた。 ソファーに体重を預けて、躁鬱さんはクラシックに着せてもらったワンピースの服の匂いをしきりにかいでいた。頬には絆創膏が貼られている。躁鬱さんが制服以外の服装になっているのを見ることはほとんどなかったので、それがクラシックには少し新鮮だった。 「……それで? どうしてあんなところで寝てたの?」 「悪いね、良く覚えてないや」 「躁鬱さんっていつもそうだよね。もう慣れたからいいけど」 くしゅん、と小さくくしゃみをする。自分も傘をささずに雨の中を帰ってきたのだということを今更クラシックは思い出した。 「私もシャワー浴びてくる……」 「クラシック、私と一緒に入ればよかったのに」 まるで『グラフ用紙を買うついでに定規も買ってくればよかったのに』みたいな日常的な調子でそう言った。 「やめてよ、そういうことを言うから富士河とかにからかわれるんだよ、私」 「からかわれなきゃいいの、クラシックは?」 「えっ」 クラシックが狼狽に息を詰めると、躁鬱さんは彼女をソファーの上に押し倒した。ズー・ハルマが、躁鬱さんに対してそうしたように。 左手をクラシックの下腹部に滑り込ませ、右手では上着のボタンを外していった。 「やっやだ、ちょっとやめてよ、まだ私シャワー浴びてないのに」 「例えば人間そっくりの反応をする人形がいたとする。そのロボットは人間だろうか?」 クラシックも弱弱しい抵抗をするが、あっと言う間に白い素肌が露わになっていく。躁鬱さんが耳元に口を寄せ、ささやく。 「たとえどんなに似ていても、それは意志がこもらない。 「何のことだかわからないよ」 お腹を撫ぜる暴行犯の手は、シャワーを浴びたばかりだというのに死体のそれのように冷えていた。指先から刺激を受けるたびにクラシックの鼓動は熱くなり、抵抗する事を忘れていった。回り続けるアンテナが微弱な風を起こす。 やがてアンテナ少女の目が見開かれ、息が荒くなると、いよいよ彼女は視線を合わせ、顔をゆっくりと近づけてきた。クラシックは何かから逃げるように、受け入れるように目を瞑る。 そして、二人の唇は重ねられた。 それだけだった。 「私、ここから先をどうすればいいか知らないんだ」 それだけだった。 「……え? どういう?」 「そのままの意味だよ」 躁鬱さん几帳面にも自分で外したクラシックの衣服のボタンを再び合わせていた。「それ以上は私にはできない」 「よくわからないけど、ひょっとして私またからかわれたのかな……」 一方的に行為の打ち切りを告げられたクラシックは、くしゃみが出てきそうで出てこなかったときの百倍以上のもどかしさを感じていた。 「そういうことになるかな。どうするべきか、というのを知っていれば続きがあったかもね」 自分の着ている衣服に顔を埋めて鼻を鳴らしながら躁鬱さんは淡々と言った。内容に反して、疲れや無気力とは無縁のはずの彼女の口調は妙に無機質だった。相変わらず不可解で、奔放で、誰にも縛られていない(かのように見える)友人だったが、確かな事が唯一つあった。彼女は、ふぐ料理屋でも、そして今日も、何もしなかった。 「クラシックの反応、面白かったよ」 「あのねえ! 冗談も大概にしてよ」 一度は鎮まったアンテナが再び回転を始めた。こうやって感情を隠そうが隠すまいが直ぐに現れてしまうのがこういう人種にからかわれる理由なんだろうなと、目の上のタンコブならぬアンテナを彼女は呪った。 「いや、いろいろと参考になったよ。今度私が似たようなことをされたときは、ぜひ使わせてもらうよ」 朗々と理解できない事を言われても嘆息するほかなかった。これ以上突っ込むのもバカバカしく、それでも何か口を開かずにいられなかったクラシックは彼女の行動のひとつについて指摘をした。 「さっきからその服の匂いかいでるけど、何か変なにおいでもした?」 「うん」 躁鬱さんは細く、無邪気に笑んだ。 「クラシックの匂いがした」 (了) |