2.楽園
■ 暖色系でまとめられた部屋の中央に鎮座ましますダブルベッドで、年端もゆかぬ少年がアンテナ付きの制服姿の少女に押し倒されていた。 はだけ紅潮した少年の胸はじんわりと汗をかいている。今から自分が何をされるのかを確信しているようだった。 「ね、ねぇ、その……」 少年が喘ぐと、女子校生は彼の耳元に口を近づけ、鈴の鳴るような声でささやいた。スタンドのランプが彼女の顔の陰影をくっきりと映しだす。 「あなたは私にまかせていればいいの。大丈夫、楽にしていればすぐに終わるわ」 哀れな犠牲者の視線がトロンと揺らぐ。彼女の瞳が一瞬だけ獲物を見つけた肉食動物のように輝く。そして一気にその身体を、 「ノックしてもしもぉーし、警察のものでーす」 深夜のホテル『楽園の抱擁』の一室に、扉を下品にノックする音が響いた。 「?!」 少女の表情と動きが固まる。 二秒ほどの間。小気味いい音が立ててマスターキーが挿入され、強くドアが引っ張られる。チェーンが施されていたが、それはコンマ数秒彼女の突入を防いだだけに過ぎなかった。 愛用の圧着ペンチで力任せにチェーンを引きちぎり突入してきた人間は、赤いブレザーとポニーテールの少女――躁鬱さんだった。 「警察手帳はまだ発行されてませんが警察のものです。粘膜行為に突入するのをやめて投降してください」 「魔女狩りの犬め!」 アンテナ付きの顔が苛立ちに歪む。状況を不利と見た彼女はスカートのポケットからアンテナを取り出し、少年の首に突きつけた。ペンチのブレザー少女と相対しているその光景はシュールそのものだった。 「彼がどうなってもいいの、一般人よ」 「興味ないかな」 セリフの途中で合法侵入者は無造作に、しかし超高校級のスピードでペンチを投げた。寸分たがわず左目に突き刺さり、血が涙のように頬を伝い滴る。 「いっ……」 怯み、思わず顔を手で覆って膝をつくアンテナ付き。少年に付きたてていたアンテナは乾いた音を立てて絨毯の上を転がる。アンテナ人間のすべてが超人的な精神と肉体を持っているわけではない。もしそうであったとしても眼球と関節を鍛えることはできないのだが。 しかし躁鬱さんは容赦をしない。呆然としている少年の横を通り過ぎ、無防備なアンテナ付きの背を右足で踏みつけ、右手で頭頂部のアンテナをつかんだ。強引に引き抜こうという気らしい。頭皮がきしむ嫌な音が頭蓋を通じてアンテナ付きの耳に届く。 「や、やだあ! やだ、やめて、やめてええええええええええ!」 己の運命を悟った元捕食者は左目からは血を右目からは涙を流して哀願した。自らの脳と直結しているアンテナがひっこ抜かれるとどうなるか。小学生でも想像できる。 「無能<スレイブ>め。つまらん」 あくまで冬のコンクリートのように冷淡に、アンテナを引き抜いた。少量の血と、白子のような脳味噌がアンテナと共に引きずり出てきた。 人間の脳味噌の味と、そして食べると頭がよくなるという説に興味があった。興味があっただけで、積極的に実行するという発想も機会もなかったのだが。 「ご苦労、内海くん」 どうしようか悩んでいるところにもう一人の闖入者が失礼してきた。格子柄の背広とマスクの異端審問官、リルカリルカである。 「後始末よろしく、リルカリルカ」 息一つ荒げずに、気楽な足取りで躁鬱さんは部屋を後にした。さすがにいろいろうるさい国家権力の前で*****するわけにもいかなかった。 「ば、化け物……」 取り残された一般人が彼女を呼ぶに適切と思える単語を漏らすと、怒りとも呆れとも違う平淡とした口調でリルカリルカは応えた。 「命の恩人に言うには適切な言葉ではないな」 マスクの向こうがどんな表情を取っているか、読み取る事は出来ない。 ああいうものを見てしまって自分はこれからどうなるのだろうか。この怪しい人間は記憶を消す装置とかを持ってそうだ。いや口封じに命を奪われるのかもしれない。などと悪しきサブカルチャーに冒された脳で考えていると、再びリルカリルカがマスクの下で口を開いた。 「ところで、もう少しというところで取り上げられたんだ、いろいろ溜まっているだろう。こうなったら少年、この私と事に及ぶというのはどうかね?」 「お、お断りします!」 全力で拒絶した。 ◆ 始業の鐘が鳴る中、クラシックはけだるげにため息をついていた。 やんごとなき事情で躁鬱さんの住まいに泊まることになってしまったが、実際のところあんな魔境は一刻も早く脱出したかった。太平洋の真ん中を浮き輪一つで過ごしているようなものだ。躁鬱さんの案内無しにあのアパート街を脱出する事は出来なかったのだから。 そうこうしていると一時限目担当の国語教師が入ってきた。 「出席取るぞー。阿武ー」 「はーい」 「井澤ー」 「うっす」 「内海ー」 「はい」 「えっ」 聞き慣れた声がしてクラシックが左を向くと、果たして躁鬱さんは、平然とクラシックの隣席に座って出席に応えていた。 「あれ、なんでいるの?」 「なんでいるの、とは悪い冗談だねクラシック。あなたがそうしてくれって言ったからじゃない」 「おいそこの恋人たち! 語らいは後にしろ。おれの出席の邪魔をするんじゃない」 「わ、すいません」 国語教師に叱咤され、クラシックは身を縮めた。 久々に出席した躁鬱さんの調子はいつもと同じだった。ノートも参考書も出さずにただ窓際の席から外を眺めていただけ。その姿を自由と呼ぶのか怠惰と呼ぶのか、クラシックには判断が付かなかった。 授業が終わり、眉をひそめて未知にして既知の隣人に尋ねてみる。 「それにしても、あれ本当だったんだ。適当にあしらわれたものだとばかり」 「私はいつでも本気だよ、クラシック」 「本気、本気ねえ。わからないよ躁鬱さんの本気が私には」 はあ。と今日数度目のため息をつく。怠惰であれ何であれきっとこの友人はなにものにもとらわれずに生きているのだろう。それが少しうらやましく見えた。そうたそがれていると視界が暗くなった。後ろを振り返ってみれば、大柄な闇内の姿があった。 「おい、内海、話がある」 階段の踊り場で闇内は吠えていた。 「今更出席かよ。たいそうな身分だなおい」 彼の持ち前の背の高さ、剣道で鍛えられたその肉体はただ立っているだけで目の前の人間に威圧感を与える。あまり気の強いほうではないクラシックなどは初対面の時萎縮しきってまともに話せなかった。今でも少し圧倒されてまともに離せなくなる時がある。 「暗黒剣士も来たい時に学校に来てもいいんだよ。学校というのはそういう場所のはずさ」 もっとも、精神病を冠するあだ名を戴く少女には意味を成さなかったが。 「暗黒剣士って呼ぶな!」 「富士河にせっかくつけてもらったあだ名だ。大事にしなよ、ヤミウチノロイ」 「グッ」 ひどい名前である。闇内のろい。これが本名なのだ。 彼は自分の名前を憎んでいるということを、躁鬱さんは知っていた。まともにぶつかったところで彼女には勝てないのだ(ちなみに暗黒剣士というのは富士河の命名。珍しくセンスがいいとクラシックは思っている。もちろん当人の前ではそれを言わないが)。 「それで、何を言いに来たの?」 「お前のせいで、倉敷が迷惑になってるってことだよ。わからないとは言わせないぞ。中途半端に顔を見せるぐらいならいっそずっと来るな」 「どうしてクラシックのことであんたが怒るんだい? ノロイはノロイ、クラシックはクラシック、カモメはカモメだよ。それとも私が知らないだけで、あんたはクラシックなのかい?」 「ぬ……」 再び闇内は言葉に詰まった。 「ま、わかるよ、罰を受けてしかるべき人間がのうのうと暮らしているという事実は、あんたには受け入れがたいんだろう。真面目なことだね!」 躁鬱さんは早口でまくしたてて、最後に大きく口を開けて笑った。その笑い声に応えるかのように、休み時間の終了を告げる鐘が鳴った。敗北の文字が書いてある背中を向け、闇内は去る。 「……俺は教室に戻る」 「戻ってらっしゃい」 闇内の姿が消えるのを見計らってから、躁鬱さんは姿を見せない少女に呼びかけた。 「クーラシックー」 「えわっ」 その声に、アンテナがはみ出ていることにも気づかず壁の影に隠れていたつもりだったクラシックはあわてて姿を現してしまった。 「ええとこれはその」 あせるクラシック。 実際のところ、闇内の言っている事はほとんど事実だった。自分と躁鬱さんの間だけ教室の空気が違う。周りと数センチの大気の層ができているようだった。 なぜ彼女と友人関係にあるのか、正直よくわからない。単に彼女から逃げられないのかもしれない。 そんなクラシックの煩悶を知ってか知らずか、躁鬱さんは脈絡もなく提案をした。 「フグを食べに行こう!」 ……はい? なんでこんなところにいるんだろう。クラシックは熱さを失ったおしぼりをいたずらにこねくり回しながら自問していた。頭上のアンテナも落ち着きがない。ふぐ料理屋なんて来るのは初めてである。 それに、女学生二人というのはあまりに浮きすぎている。クラシックのあまり強靭ではない心臓は早くも高級オーラに耐え切れなくなりそうだった。よく入店できたものだと思う、いろいろな意味で。学校制服しか着るものを持っていない躁鬱さんは今もまだブレザーである。時間帯が早かったせいか客がまだ少なめで、奥の人目につきにくい個室を占領できたのがせめてもの救いだろうか(クラシックはこの選択を数十分後に後悔することになる)。 クラシックの戸惑いをよそに、ふぐ料理屋連行犯はお品書きをパラパラとめくると自信満々に次々とメニューを注文していった。どうやら食べたかったものが決まっていたらしい。あまりにも堂々とした態度に「何度も来てるの、ここ?」と訊いてみたが、回答が「いんや始めて」なものでますますわからなくなった。 「なんでもいくらでも注文していいよ。お金は十分にあるからね」などと、のように広げて能天気に笑われても釈然としない思いは深まるばかりである。そもそも彼女はとっくに両親を亡くしている。最悪にミステリアスな知り合いの身元引き受け人のことも、普段の生活の事も、何一つクラシックは知らなかった。彼女のブレザー姿と身分に不釣合いな大金の所持から、一つの最低な解が導かれた。 「ねぇ、一つ質問していい?」 「今日のクラシックは質問が多いね」 眉をひそめざるを得なかった。 「ねぇ、その、ひょっとして……え、援助交際とか、やってるの?」 躁鬱さんはすでに運ばれていたふぐ刺しに箸を伸ばすのを止めて、笑った。 「援助交際か。似たような事はやってるかもしれないね。まあ、クラシックが心配しているような事は何一つとしてやってないよ」 けらけらと否定はしてくれたものの、クラシックの不安は消えなかった。目の前の刹那主義的に見える友人は平然と見知らぬ人間と身体を重ねていても違和感がないように思えた。いや、でも。きっと自分はナーバスすぎるだけなのだ、と強引に納得でフタをすることにした。不安に思う気持ちと同じぐらいには彼女の事を信頼しなければならない。 それに、今おごられているのは私のほうなのだ。ふぐ刺しは透き通るような舌触りだったし、から揚げにかぶりつけばさくさくとした熱い衣の下の白身の弾力が楽しく、食べ物で幸せになれる機会は次はなかなか来ないだろうと思わせた。あまり疑ってばかりでは失礼である。 「きょ、……今日はありがとう」 お礼を言われた躁鬱さんのほうはと言うと、白身よりも淡白な表情でふぐ刺しをつまんでいた。不快さこそ見えないものの、幸せそうな顔にも見えない。この手の店に頻繁に通っているわけではないということは、先ほど口にしていた。 なんというか、食べるとか寝る、みたいな生理的欲求を満たすことにはそんなに喜んだりしないのかな、とクラシックは考えた。でも、ただ他人を喜ばせる事で喜ぶような人間にも見えなかった。 深く考えないのが正解だろうな、という結論にたどり着いたところで、ふぐの白子の鉢が運ばれてきた。 これは私のだ、と言わんばかりに左手で鉢を寄せる。鉢に敷き詰められた白子たちはなかなかグロテスクだった。まるで人の脳味噌みたいに。 「これが目当てだったんだよ」 躁鬱さんは口角を吊り上げて笑みを形作った。 そしてその直後、これまで見たこともないような神妙な顔に変わり、精密機械に触れるような慎重な手つきで箸を伸ばす。つかむ。口へ運ぶ。そこからの視覚情報はいらないとばかりに目を閉じる。 ゆっくりと咀嚼。そして、嚥下。数秒の間。 しかし、白子を待ち望んでいたはずの躁鬱さんは、満足な表情を見せなかった。むしろそれは落胆だった。 「だめだね。期待はずれもいいところだよ。確かに味はよかった。栄養価も悪くない。だが、普通だ。所詮魚の脳味噌なんてこんなもんか」 まるで美食家のようにたいそうな事をとうとうと語り始めた。従業員が通りすがってないことに安堵を覚える。とりあえず、熱が失われきったおしぼりで意味もなく手を拭いてみた。 「はあ、これ全部食べちゃっていいよ」 「う、うん……」 失望を隠そうともせずに彼女は鉢を押しやってきた。なんだろう。白子にはどういう期待をしていたのだろうか。目の前の何かが行動を起こすたびに不可解さが沈殿していく。 「やっぱり人間のものを食べないとだめ、ということかな」 数秒の沈思黙考の後、躁鬱さんは理解しにくい事を言って立ち上がった。こっちに近づいてくる。アンテナが高速回転する。 危険信号だ。逃げよう。立ち上がる。壁にぶつかる。ここは個室の隅だった。回転の速度が一段階上がる。 「人間の脳味噌をすすれば知恵を得られるって言う話をどこかで聞いたんだ」 躁鬱さんの顔が吐息の感じられる距離にまで近づいた。 「食べるのならクラシックだね」 顎を手でつかまれた。回転は止まる気配を見せない。逃げ場はどこにもなかった。思考が沸騰する。 思えばいつだって、彼女といる時は海の真ん中だった。浮き輪が彼女だった。 彼女といる時だけは、わずらわしいことを何も考えずに済んだ。そこにいるだけで価値があるように錯覚させてくれた。 それが楽園なのだろうか。 何もかもが狂っている。しかし、彼女には一つだけ伝えなければいけないことがあった。 躁鬱さん、白子は脳味噌じゃないんだよ。 (了) |