4.特権




 誰も立ち寄らない廃ビルの一室のベッドの上で一人の少女が毛布に包まっていた。
 彼女はベッドの隣に配置されたテーブルの上の花瓶に生けられた白い花を目を細めて眺めている。伸びるに任せた長い長い髪と、無地の白いパジャマが見るものに病人然とした印象を与える。
「この花の花びらがすべて散った時、私の命も散ってしまうのね」
 薄紙がこすれるような声でささやいたすぐ後に、立て付けの悪い扉を叩く音がした。
「入りなさい」
 戸を開けて入ってきたのは深いスリットの入ったゴシックの少女とその従者だった。こちらもまた、別の意味で病人じみている。
「おやつの時間です」
「あら、波留麻。もうそんな時間だったのですね」
 給仕服姿の従者が慣れた手つきで熱いダージリンとイングリッシュマフィンを配膳していく。たちまちのうちに、薄汚れたコンクリート壁の部屋とは不釣合いの高価な食器がテーブルに並んだ。
「いつもありがとう」
 立ち去ろうとする従者の手を取り、ハルマは手の甲に口付けをした。従者はわずかに顔を赤らめると、礼をしてそそくさと部屋を後にした。
「あなたは罪作りな子ですね。嫉妬してしまいます」
 言葉とは裏腹に、ベッドの少女は満足そうな笑みを浮かべていた。



 さり、さり、さり。
 小刻みにりんごの皮を剥く音が枕元から聞こえてくる。
 電車の走行音。羊水の鼓動。カノン。繰り返される一定のリズムは安心を誘う。
 こと、こと、こと。
 これは遠く台所で鍋が蓋を鳴らしているところ。
 しょり、しょり、しょり。
 これはりんごが等分に切り分けられる音だ。
 規則正しい音と、窓から差し込む柔らかな陽光がクラシックの意識を眠りに誘おうとしていた。
 ぱく。ぱく。ぱく。
「いや、ちょっと待ってよ」
 眠気は覚めた。
 躁鬱さんは、ベッドに横たわるクラシックの枕元で背もたれのない椅子に座って黙々とりんごの皮を剥いて刻んでは口に運ぶという作業を繰り返していた。
「なんで躁鬱さんが食べてるの? 私のために剥いてくれてたんだと思ってたのに」
「なんでって、病人がいたらその横でりんごを剥いて食べるものなんじゃないの?」
「どうして躁鬱さんは部分的しか合っていない知識ばっかり持ってるんだろうね」
 また少し熱が上がったような気がした。体温計が三八.五度の高熱を訴えたのは今朝の事である。先日雨の中を傘も差さずに走ったのが原因だろう。
「なんだ、自分じゃりんごは食べられないのか。じゃあはい」
 と、躁鬱さんは手を延ばし、りんごをクラシックの額の上に乗せた。少しひんやりしていて気持ちが良かった。
「おちょくってるの? おちょくってるでしょ。私のこと実は心配してないよね」
 己の額のりんごを取って音を鳴らして噛み砕き、言葉を吐いた。あわててしゃべったせいで、りんごの欠片が躁鬱さんの頬に飛んだ。
「まあね。私風邪ひいたことないからよくわからないし」
 糾弾されたほうは体を横に向け、頬についた欠片を舐め取り平然と応えた。バカは〜という例のフレーズが口元まで出てきたがクラシックはこらえた。
「別に、クラシックのことはそんなに心配じゃなかったからね。暗黒剣士が行けっていうから来たけど」
 彼女と付き合っているとため息の回数が増える。
「まあ、躁鬱さんは普段から学校来てないから、そうかもね」
「それに、クラシックはちゃんと看病してくれる人がいるし」
「はーいおかゆできたよー」
 足で器用にドアを開けて小さい鍋と蓮華が載ったお盆を持った、スレンダーな中年女性が入ってきた。見知ったポニーテールの少女の姿を認めて、彼女は顔をほころばせた。
「あらあら内海ちゃん、わざわざお見舞いに来てくれたの? どうもありがとね。でも何も言わずに忍び込んだりするのはやめなさい」
「この間『自分の家だと思ってくつろいでいい』って言ってたじゃないですか」
「くつろぎすぎ!」
 しれっと応える躁鬱さんにクラシックの母は苦笑しながら鍋を置いた。
「じゃ、くつろぎついでにこのお粥を灯に食べさせておいてくれるかしら? 私はスーパージャンプ二〇回に挑戦するのに忙しいから」
「喜んで」
 母親が去ったのを見届けてから、躁鬱さんは鍋の蓋を取った。多量の湯気が立ち上るとともに、ささやかな芳香が部屋に漂う。
「あっつ」
「今度はちゃんと私に食べさせてよ」
「しょうがないな。わかってるって」
 少し迷った後、躁鬱さんは蓮華でお粥をすくい、無造作にクラシックの口に突っ込んだ。
「あっつ! 躁鬱さんたっぷり盛りすぎ! ちょ、ちょっやめ」
「口閉じてたら食べられないよー。ほらほらあーん」
「@☆♪&#?/◎」



「私の王国に思いを馳せていたら、あっという間に時間は過ぎ去ってしまいますね」
 シロップたっぷりのマフィンを平らげたベッドの少女は、開かない窓に目をやって微笑んだ。
「あなたの作ったマフィンを食べられるのも、これが最後でなければいいのですけれど、波留麻」
「たとえ最後であったとしても、それを楽しめばいいだけです、お嬢様」
 享楽主義者はニ、と歯を見せて笑いを形作った。
「私のことはご主人様と呼びなさい、と言ったでしょう」
「では、わたくしご主人様に一つ申し上げなければならないことが」
 少女の忠実なしもべは椅子を立ち、主人を流し目に見てこう言った。
「その花はイミテーションですよ、ご主人様」
 
(了)
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