『マイナスの夜』

 目の前に、精悍な顔つきの黒髪の男の人がいます。無駄な筋肉のない鍛えられた体は一本の剣みたいです。まだお若いですが、レベルは確か30ほどだったはずです。段差があるため目線は同じですけど、実際には頭一つ以上勇者様のほうが大きいです。わたしは、といえば成人――十五歳からがそうです――したてのレベル1の小娘ですから。
 聖句をつぶやくと、背後の窓から差し込む光がひときわ強くなり、周囲が白一色に満たされました。これは聖職者である私にしか見えない神々しい光、ささやかな秘跡(サクラメント)なのです。わたしの体はわたしの制御を離れ、ひとりでに唇が言葉を紡ぎ出します。パチリパチリ、チカチカチカチカ。

「ゆうしゃよ あなたが レベル31になるには10737418240のけいけんちがひつようでしょう」

 それだけ言い終えると、神さまは離れ、わたしの意識は戻り、あたりを包んでいた光はおさまりました。
 今更、勇者様とたった二人で見つめ合ってることに気づき、わたしは照れ臭くなって目を背けてしまいます。薄暗い教会内のことですから、おそらく顔を赤く染めていたことは気づかれていないことを祈るばかりです。

「ありがとうございます、侍祭殿」
 勇者様が神妙な面持ちで頭を下げます。私は恐縮します。勇者様はわたしのような、下位の叙階の使徒である侍祭にさえ礼を忘れないのです。
「あなたに神のご加護があらんことを。記録もしてゆかれますか?」
「お願いします」
「では、あなたの行いを神の御前にてご報告ください」
 やや慣れない、おぼつかない口調でお決まりの文句を口にします。本来なら『旅の記録』などという仕事はわたしのような侍祭ができることではありません。数カ月ほど前、わたしの師である老司祭さまが天寿を全うされてしまったため、『神のお告げ』といった小さな仕事から『旅の記録』といった大役までのすべての儀式や奉仕が、この教会唯一の神職であるわたしに任されたのでした。

 『旅の記録』は勇者様の存在をわたしと神様が覚えることで、勇者様はたとえ命尽き果ててもここに戻り、旅をやり直すことができるという、とても大切な儀式です。もっとも、勇者さまを傷つけることができる者などこの世に数えるほどしかいないでしょう。
 それに対し『神のお告げ』は、勇者さまが次のレベルに至るまでの必要な経験を数字にして伝えるという、正直言って今の勇者さまには必要のない儀式です。でも、勇者さまが日々成長なさっていることを知ることができて、わたしは気に入っています。

 すべての工程をすませ、緊張から解き放たれ神官さんモードから一介の小娘に戻った私は、弛緩のあまり「くふぅ」と息をついてしまいます。勇者さまが正面にいるのも忘れて。
「よしよし。今日もありがとう、侍祭殿」
「あっ。んん……」
 勇者さまが祭壇まで登ってきて、わたしの頭を修道帽(クロブーク)の上からなでなでします。帽子の下で、わたしの亜麻色の髪がくしゃくしゃっとなりました。こんどこそ、わたしが赤面しているのはバレバレなのでしょう。恥ずかしいです。もう、勇者と神官ではなく、近所のお兄さんと子供モードです。成人になったし、自分ではずいぶんとおとなっぽく成長したつもりだったのですけれど、勇者さまにとってはわたしなんていつまでも子供なんだろうなあと思います。この先、わたしはずっと勇者さまに釣り合うような魅力的な女性にはなれないのだろうなあと思うと、胸が苦しいです。ずっと前に、諦めていたことのはずなのに。無意識に、わたしは青い祭服の裾をぎゅっと握り締めていました。
「勇者さまは明日、出発でしたよね。……寂しく、なりますね」
「そんな顔をするな。すぐ……とは言えないが、私は必ず戻ってくる。魔王を打ち滅ぼし、この世界に平和を取り戻して」
 どうやら、わたしは自分が思っていたより残念な顔をしていたようです。これではいけません。もっと明るく、笑って、送り出すと決めていたのに。

 さきほど、勇者さまを傷つけることができるものは数えるほどしかいないと言いました。そのうちの一つが、魔王です。
 平和な世に突如現れ、怪物を従え悪逆の限りを尽くす魔王。その正体は怨霊のようなものだと言われています。何度滅しても、魔王の魂はまた新しい怪物に取り付き、再び世界の支配を狙うのです。いつ復活するかわからない魔王の為に、勇者の血を絶やすことは許されませんでした。
 なぜ、『勇者』が必要かというと、勇者にしか聖剣が扱えないからです。魔王は、その肉体をばらばらに引き裂いても復活するという恐るべき生命力を秘めています。それを封じるには、聖剣で心の臓を貫く必要があります。そうすれば少なくとも、魔王があらたな依り代を見つけるまでの数十年は平和は約束されるのです。
 そして、目の前で私の頭を撫でているこの方こそが、当代の勇者、というわけです。

 記録を済ませた勇者さまは、多くの屈強なお仲間たちとともに、生まれ故郷でもあるわたしの村を旅立ってゆきました。わたしもそれを手を振って見送りました。かろうじて泣きはしませんでした。
 これが今生の別れになるかもしれないから、ではありません。万一魔王に敗れても、勇者さまには不死の願い(クエスト)がかけられています。先程も言ったように彼は特別な存在なので、死んでも多少レベルが下がってこの村の教会に送り戻されるだけで済むのです。それに、勇者さまにはもちろん及びませんが心強い仲間たちがいます。近くで見たわけではないので自信はありませんが、レベルにして20はくだらないはずです。レベル、というのはこの世界の人間の強さを表す数字の単位で、成人したての青年がレベル1に相当します。レベル10程度で熟練の冒険者、レベル20なら達人の域といえるでしょう。レベル30の勇者さまに至ってはもはや神さまにも手を延ばせる領域です。私はもちろんレベル1のぺーぺー。神職ゆえ、祈祷や儀式など一般の方にはない技能もいくつか持ってはいますが、戦闘に関してはまったくの素人です。初歩の治癒の魔法すら満足に扱えないわたしでは、初心者の冒険者パーティーにすら入れないでしょう。

 この冒険が終われば勇者さまが大国のお姫様――まだ十二歳です、なんとわたしより三つも下!――との婚約が執り行なわれる予定だからでもありません。たしかにわたしは勇者さまに恋をしていました。玉砕覚悟で告白もしました。結果? 言うまでも無いでしょう。歳の離れた兄と妹のようなものなのですから。
 わたしが恐れているのは、ただ、勇者さまが魔王討伐という偉業を成し遂げて、ほんとうに手の届かない存在になってしまう、ということです。そうなれば、わたしのような一介の侍祭にかまっているヒマなどなくなってしまうでしょう。勇者さまには、いつまでも教会に訪れたときついでにわたしの頭を撫でてくれるような存在でいて欲しかったのです。
 そんなわたしの苦悩も知らずに、勇者さまは旅立ってゆきました。当然です。わたしなどという存在、勇者さまの人生においては端役にすぎないのですから。

 それから時間は流れて。
 ――小鬼の群れに襲われていた集落を救った。
 ――王に成り代わり、圧政を敷いていた人に化ける怪物を倒した。
 ――混乱に乗じ、悪事を働いていた盗賊団を成敗した。
 ――洞窟に潜み、生贄を要求して民を苦しめていた五つ首の龍を討滅した。
 そんな勇者さまの数々の功績は、この山奥の寒村にも届いてきました。一ヶ月遅れではありましたが。転送魔術などという便利なものもありましたが、こんな田舎の村にはそんなものは無縁です。
 魔王山に赴く前に、勇者さまのパーティーは魔王の力によって凶暴化した各地の怪物を討伐に向かったのです。民を救うのが勇者の使命であり、それが魔王の力を削ぐことにもなりますから。
 その数々の報せは、勇者さまが元気にやっていること、勇者さまのおかげで世界がだんだんと平和へと近づいていることを教えてくれて、うれしくなります。それとは逆に、勇者さまがだんだん遠い存在になってしまうのも感じていて、わたしは複雑でした。

 わたしはといえば、亡くなった老司祭さまに少しでも近づくために神さまについて勉強したり、勇者さまのような冒険者がいつでも訪れることができるように教会を掃除したりしていました。本当なら協会本部から代わりの司祭様が派遣されるのですが、この混乱した情勢では勇者さま不在の田舎村にかまっている余裕はないのでしょう。そんなわけで、今でもわたしひとりで教会を管理していました。
 鍛錬のために冒険者パーティーに雇われて、ちょっとした探索や弱い怪物の退治に参加したりしました。初めてのことばかりでいろいろと苦労はしましたが、おかげでなんとレベル4にまで成長しました。背も一寸程度は伸びています(胸のほうは、その、あんまり……)。勇者さまが今のわたしを見たら、成長したねとほめてくれるでしょうか? 勇者さまにとってはささやかすぎるから、気づかれないかもしれませんけど。まあ、過ぎた願いです。

 勇者さまが旅立たれてちょうど一年後、ついに勇者さまパーティーが魔王の本拠地である魔王山に挑むという報せが届きました。わたしは十六歳になっていました。魔王山は旧い魔王の死体から出来たと言われるとても険しい山地で、また魔王によって迷いの霧が張り巡らされている上、各所にはよりぬきの強力な怪物が配置されているとの噂です。あまりに攻略が困難なダンジョンで、最奥に辿りつくには十分な装備の上で一、ニヶ月はかかると言われています。報せはちょうど一ヶ月ほど遅れて届くので、今頃は魔王と相対しているかもしれません。
 つまりこの世界に、もうすぐ平和がやってくるということです。
 ――ああ、懺悔します。わたしは勇者さまがずっと魔王を倒せなければいいとすら思ったこともありました。神職の人間でなくても、これは罪深い願いです。神さま、どうかお赦しください。
 端役程度が何を願おうとも、世界は回り続けます。わたしはやきもきしながら、続報を待ち続けました。勇者さまが、名実ともに『勇者』となるその報せを。

 事件は、不安になるようなある美しい満月の夜に起こりました。私がいつものように、就寝前に礼拝堂を掃除していると、突如まばゆい光が視界を満たしました。この光は、神の奇跡の顕れに違いありません。魔王が滅びたとき、各地に女神様が降臨して魔王の死を伝えるといいます。ついに運命の日がやってきたのでしょうか?
 しかし、そうではありませんでした。光がおさまると、祭壇の上には――血だらけになった勇者さまが横たわっていました。
 あまりの出来事に、わたしは口に手をあてて悲鳴を上げてしまいました。数秒ほどのち、これが『不死の願い』が発動した結果だと気づきました。勇者さまが命を落とすなんてありえませんが、そうとしか考えられません。魔王とはそれほどまでに強大だったのでしょうか。
 ともあれ、わたしは人を呼び、他の人に手伝ってもらい勇者さまの大きな身体をベッドに運んで寝かせ、必死に治癒の祈りをしつづけました。小さな村では神官が医者を兼ねます。治癒の祈りができるようになって、本当によかったと心の底から思いました。しかし、勇者さまの傷はなかなか完治しません。レベルが高すぎて、わたし程度の使徒の祈りでは簡単には傷が癒えないのです。効果があるのは確かなので、わたしは一晩中付き添って祈り続けました。これ以上勇者さまのレベルを下げないために。

 『不死の願い』は、確かに勇者を死から守ってくれます。しかし即座に傷が消えるわけではなく、『死ぬ少し前』の状態まで巻き戻り、安全な場所へ転送するだけなのです。つまり、放置すればもう一度勇者さまは死に、余計にレベルが下がってしまうのです。今の勇者さまはレベル28でした。一年の間に相当レベルが上がったはずなのに、それもみんな帳消しです。
 必死にわたしが祈りつづけた結果、勇者さまがようやく意識を取り戻しました。とはいえ、まだ予断は許されません。勇者さまが震える手をこちらに伸ばしてきたので、わたしは安心させようとそれを両手で握り締めます。ずっと剣を振るってきたその手はごつごつとした殿方らしいもので、こんな状況だというのにわたしは不覚にもどきどきしてしまいました。
「あ、安心してください。かならず助かりますから」
 手を握りながら祈っていると、勇者さまの情念が掌を通して伝わってきました。神に仕えるものは、遠い宇宙にあらせられる神さまのか細い声を聞き取らなければなりません。その修練の副産物として、近くの人間の感情がなんとなくですがわかるようになってしまうのです。これは自分では制御できない、言ってみれば職業病のようなものです。人の心がわかってしまうのは、あまりいいことだとは思えませんが仕方ありません。
 伝わってきた勇者さまの感情――それは、不安、混乱、恐れ、不信でした。いったい何の? ――仲間へ、人間への。
 わたしはハッとしました。勇者さまを死に至らしめた傷は背中にできた傷でした。そして、勇者さまが常に肌身離さず身につけていた聖剣が、彼の装備にはありませんでした。
 その三つから導きだされる答え――それは、勇者さまが魔王山の道中にて、仲間に裏切られて背後から刺され、聖剣を奪われ死んだということでした。勇者さまは意識を完全に取り戻してからも、死因についてはひとことも語ってくださりませんでしたが、そう信じています。だって、それ以外には考えられないのですもの。

 勇者さまの強靭な生命力と、一晩中の私の祈りの成果もあってか、翌朝には勇者さまは完全に治っていました。
「自分がここに戻ってきたことは、今はどうかこの村だけの秘密にしておいてほしい」
 勇者さまはそうおっしゃりました。確かに、勇者さまが一度死んだとわかれば活気を取り戻していた世情は再び不安に見舞われるでしょう、それを配慮してのことでした。
「魔王山で待っている仲間と合流してくる」
 そう言い残して、意識を取り戻した翌日にはフードを被り、再び出立していました。わたしのことは撫でてくれませんでした。それが少し残念でした。
 しかし、自分を裏切った仲間たちと合流してどうしようというのでしょう。そんな疑問を本人の前で口に出すことはできませんでした。出させてくれませんでした。

 ところで、レベルの表す強さというのは絶対的なものではありません。レベルに劣るかつての仲間に殺されてしまったように、状況によっては簡単に逆転してしまいます。
 勇者さまは聖剣を奪われ、ろくな武器も持たずに旅立ちました。また、その精神状態も健全なものとは程遠いものでした。
 結論からいうと、一ヶ月ほどして勇者さまは魔王山にたどり着く前に小鬼の集団に襲われ、二度目の死を迎えました。パチリパチリ、チカチカチカチカ。

 勇者さまが再び『不死の願い』によって教会へと転送されてきたとき、わたしはあまり驚きませんでした。心のどこかでそれを予感していたのでしょう。再びベッドに運び、治癒の祈りに没頭しました。前回の件で治癒の祈りに関して習熟したわたしは、完治に一晩中かかっていた祈祷を二刻ほどで済ませることが出来ました。勇者さまのレベルが下がっていたのもあるのでしょう。神さまは、勇者さまのレベルが22であるとわたしに告げていました。
 これでわたしは、二度にわたって勇者さまを救ったことになりました。実際に勇者さまの命を救っているのは『不死の願い』という秘跡であり、教会にいる神官はわたしでなくてもよかったのですが、それでもちょっとした自負となってしまったのは否めません。でも、これ以上生死の境目をさまよう勇者さまは見たくありませんでした。怪我による高熱にうなされる勇者さまを見ながら、このまま二度と起き上がらなかったら、と思うとぞっとしません。

 それなのに、勇者さまは身体を動かせるまでに回復すると、すぐさま一人で出発しようとするのです。わたしが恐れ多くも、ゆっくり経験を積み直してレベルを戻しながら信頼する仲間を集めなおしてみてはどうかと進言しても、取り付く島もありません。
「こうして時間を無駄にしている間にも、魔王に苦しめられている民がいる。魔王を倒せるのは私だけなのだから、一刻も早く魔王を倒しに行かなければならない」
 勇者さまのおっしゃることは確かに正しいことでした。しかし、このまま闇雲に行動しても悪循環は続きます。それがわからない勇者さまではないはずなのに。勇者さまは文武両道を兼ね備えた聡明で立派な方です。ただ戦が強いだけでは勇者の資格はないのですから。
 たかだかレベル4の侍祭が勇者さまの決定を退けられる権利があるはずもなく、彼は再び旅立って行きました。旅の結果をあえて記す必要はあるでしょうか。次に教会に勇者さまが戻られたのは三週間後のことでした。パチリパチリ、チカチカチカチカ。

 それ以降、勇者さまが『不死の願い』で戻ってきても私は村人を呼ぶようなことはしませんでした。三度目以降になると慣れてきて、わたし一人でもどうにかできるようになっていました。それに、何度も勇者さまが死んだと知れると村が不穏な空気に包まれてしまうでしょう。幸いにも、勇者さまが来るのは治癒の祈りも板についてきました。天の御使いがラッパを鳴らし、私のレベルが5へと上がったことを教えてくれます。世間的には、勇者さまは行方不明扱いになっているようでした。
 五度目のとき、私はベッドに腰掛ける勇者さまを問い詰めました。どうしてそんなに焦るのか。なぜ、わざわざ死に向かうような無謀な旅に出るのか。
 執拗なわたしの詰問に、とうとう勇者さまは口を開きました。
 いわく、自分は幼い頃から、生きているうちに復活するとも決まっていない魔王を討伐する使命を課せられていた。いままでの鍛錬も、いままで生きてきた意味も、すべては魔王を殺すためだけのためにあった。それなのに、もし魔王を倒すことが出来なかったら、自分の人生の意味がすべて否定されてしまう。とのことでした。
 この若さでレベル30に到達していたのには、当然ですが血筋以外にもそれなりの過去があったようです。勇者さまは、実の親から課せられた壮絶な鍛錬の数々を語ってくれました。それはあまりに非人間的なもので、聞いているだけで吐き気をもよおしてしまいそうなものでした。

「……過去の勇者たちは、必ず復活した魔王を倒していた。魔王を倒せない勇者になんて、価値はあると思うかい?」
 ベッドから立ち上がって、拳を握り締めそう吐き捨てる勇者さまの横顔はあまりに弱々しいもので、見ているわたしのほうが苦しい有様でした。
「……あ、あると思います」
 わたしは、やっとの思いでそう口にしました。弱ってしまった勇者さまに、何かしてあげたかったのでしょう。
「勇者さまは、いままですごく頑張ってきました。悪人を退治したり、恐ろしい竜をやっつけたり。魔王を倒せなかったって、誰も勇者さまのことを責めたりしませんよ」
 必死に笑顔を作りました。話し始めると、自分でも驚くほどの饒舌さをわたしを発揮しました。よくなかったのは、しゃべるのに夢中で勇者さまの表情の変化に気づけてなかったことです。
「例えば、その……お嫁さんを見つけて(わたしみたいな、と言いたかった)、家庭を築いて、いいお父さんとして過ごすのも悪くはな……」
 わたしの視界が弾けました。その次の瞬間には、わたしは杉の床に尻餅を付いていました。頬がじんじんと痛みました。まだわたしに両親がいたころ、無作法をして頬を張り倒されたことがありましたが、それより何倍も痛かったです。
 見上げると拳を突き出した勇者さまがいたので、わたしが勇者さまに殴られたということに気づくことが出来ました。

「え……?」
 呆然としていました。あの優しい勇者さまが。そんな。
 傷ついていました。傷んでいました。殴られた頬だけではありません。心が。勇者さまの人生を否定する言葉を口にしてしまったわたしの心が。
 しかし傷ついていたのは勇者さまも同じでした。私を殴ったその姿勢のまま、わなわなと震えていました。自分が何をしたか、理解を拒否しているかのように。
 しばらくそうしたのち、勇者さまはなにごとか叫び、呆然としているわたしを残して飛び出していきました。
「う……ううっ、ひっぐ、ひっぐ、うぁぁぁ」
 わたしは無様に泣きじゃくりました。床に鼻血と涙と鼻水が混ざり合ってぐちゃぐちゃになったものが、ぽたりぽたりと落ちました。
 ちなみに、着の身着のままで飛び出していった勇者さまは、それから三日後に戻ってきました。
 ――ずっと魔王を倒せなければいい。
 いつかの私のいびつな願いは、いびつな形で成就しようとしていました。

 何度も死んでは戻ってくる勇者さまを介抱しているうち、気づいたことがあります。
 それは、レベルが下がるにつれて勇者さまは若返っているということです。五度目で疑念に、七度目でそれは確信に変わりました。
 そのとき勇者さまはレベル15だったのですが、筋肉が落ちているのみならず背丈まで、わずかにですが小さくなっていました。といっても相変わらずわたしより頭一つ高い程度あったので、まだ誤差に過ぎないのでしょうが。
 鍛錬不足でレベルが下がることはありますが、別に若返ったりはしません。勇者さまの場合、命の代わりに経験を奪われるという特殊な事例のためこうなっているのでしょう。ここまで頻繁に死に、レベルが何度も下がった勇者など過去にいないので憶測に過ぎません。
 その時点では『終わり』が遠かったためわたしも(きっと勇者さまも)楽観視していたフシがあるのですが、十度目の帰還でレベルが10を割り込んだ頃には二十歳ぐらいになり、そして二十一度を数えたとき――勇者さまは成人したての十五歳の身体になってました。レベルは……1、です。

「ゆうしゃよ あなたが つぎのレベルになるには10のけいけんちがひつようでしょう」

 レベル1の勇者さまは、驚くべきことに私より背が低くなっていました。わたしは特に長身というわけではないので、少年のころの勇者さまは小柄だったのでしょう。筋肉で美しく引き締まった身体はすっかり面影もなく、女の子のような体つきになっていました。中性的な美少年です。わたしを除けば誰も彼をあの勇者と同一人物だとは思わないでしょう。
 そんな有様でも、勇者さまは魔王山へ向けて旅立とうとしていました。わたしもそれを看過していました。もはや習慣となっていたのです。
 どこかの段階で、勇者さまをベッドに縛り付けて冒険に行くのを強引に阻止するべきだったのでしょう。しかしわたしはそれをしませんでした。勇者としての冒険こそが彼の幸せだと思っていた、という以外にも――これ以上経験が秘跡に吸われたらどうなってしまうのか、興味があったと言われればそれは嘘ではありません。お互い、精神の均衡がどこか崩れていたのでしょう。
「侍祭殿……いま、なんと」
「この村に滞在されている間は、わたしの妹として振舞ってもらいます。もはや、勇者様を識別できるものはこの村――いえ、世界のどこにもおりません。そのほうが面倒は少ないと思います」
 教会にはわたしが侍祭としての仕事の外で普段着ている簡素な女性ものの服しかなかったので、勇者さまにはそれをお召しになってもらうことにしました。もし男性ものの衣服を私が探せば、それは不審に映るでしょう。クリーム色のチュニックに身を包んだ勇者さまは、かわいらしい女の子にしか見えませんでした。
「……ああ、わかった、そうしよう、侍祭どの」
「だめですよ」
 わたしは、お姉さんが妹に対してそうするように、人差し指を口の前で横に振ってみました。孤児のわたしは、きょうだいに憧れていました。
「徹底しましょう。わたしは勇者さまのお姉さんなんですから、そう呼んでください」
 そう言うと、勇者さまはとても納得の行かなさそうな顔に数秒なってから、とても恥ずかしそうに、
「お……おねえ、ちゃん」
 そう呼んでくれたので、わたしは勇者さまを優しく抱擁してあげました。――あの勇者さまが私の妹! これ以上に失礼なことが他にあるでしょうか。けれども、わたしは――正直に白状します、この背徳には興奮していました。
 たとえわたしの妹であろうとも、勇者さまは勇者さまであり――魔王へと戦いを挑みに向かわなくてはいけないのです。わたしはそれを見送ることしか出来ませんでした。

 勇者さまが出かけ、日が沈んだ頃に彼は教会へと帰ってきました。――レベルを下げて。

 どの文献にも記さされていなかった事実をわたしはいろいろと知ることができました。
 まずレベル0(ゼロ)は存在しないということ。レベル1から下がった場合、レベルは−1になるようなのです。神さまがそう教えてくれました。
 レベルが−1と化した勇者さまは、一言で言うと小さくなっていました。年齢的には十二程度でしょうか。……いえ、よく見るとそうではありません。顔立ちや全体のバランスは、十五相当であったレベル1の時と同じだったのです。等身を保ったまま、彼は小さくなっていました。頭の高さは私の胸ほどです。もし、これ以上レベルが下がってしまえば――。
 勇者さまは鏡に写った自分とわたしの姿を見比べて、震えていました。勇者さまはわたしの胸に抱きついて泣きました。もはや"死"に対する恐怖はなくても、このまま小さくなっていけばどこへと向かってしまうのか、――消滅してしまうのではないか、という畏れがあるようです。
「だいじょうぶですよ。勇者さまがどれだけ小さくなってしまっても、わたしが側にいます。わたしだけが、あなたを識別してあげます」
「でも怖いよお姉ちゃん」
「……わたしは、勇者さまだから、勇者さまが好きなんですよ」
 それはほとんど脅しのようなものでした。私は勇者さまが小さくなっていくのを、見届けたくて仕方有りませんでした。勇者さまは、とぼとぼと着の身着のままで、日が落ちた頃に教会を後にしました。
 パチリパチリ、チカチカチカチカ。

 レベル−5(次のレベルまで、あと0.15625)の勇者さまの身長は私の腰ほどでした。もう手足は枝のように細く、力を加えれば折れてしまいそうです。同じ背丈の幼児とけんかになれば勝ち目はないでしょう。
 ぶかぶかな古着をまとった勇者様は女の子というよりすでに人形のようでした。戸棚に飾っておきたいほどかわいらしいです。
 木製の裏口の扉の取ってには手が届かなかったので、わたしがそっと開けてあげました。

 レベル−10(次のレベルまで、あと0.0048828125)の勇者さまは手のひらに乗る大きさでした。余っていた布を裁断して、お手製の簡素な服を作ってあげました。
「ほらほら、早くしないと。置いて行っちゃいますよ」
 わたしは冒険の支度をして、裏口の扉を開いて勇者さまが床の木目につまずきそうになりながらも、よたよたと追ってくるのを待っていました。少しだけ開けた扉の隙間からは、早朝の涼しい風が吹きこんできました。天気は良くて、絶好の冒険日和です。
 勇者さまは私の両足の間を潜りぬけ、彼にとっては自分の身長ほどもある段差に苦戦し、なんと私の靴を踏み台によじ登り、扉の隙間に身体を通らせて外へと出ました。隙間は私の拳が入る程度のものでしたが、今の勇者さまにとっては十分すぎる広さでした。
 ようやく外に出られた勇者さまを、遅れて私も追いました。教会の裏口を出ると、そこには刈られずに放置されていた草むらが広がっています。勇者さまの姿が見当たらないと思ったら、私の股の下の草むらに埋もれていました。草の一本が足に絡まって身動きがとれないようだったので、指を伸ばして助けてあげました。ただの草むらも、勇者さまにとっては森に見えてるのかも知れません。そのままでは生い茂った草むらからは脱出できそうもないので、両足を使ってかき分けてあげました。
 全身に細かい傷を作りながら出てきた勇者様は、しゃがみこんだわたしの下ろした手のひらによりかかりました。わたしの三歩分の距離の草むらは、彼にとっては満身創痍となる荒れ道でした。わたしのブーツの残した足あとは、勇者さまがふたり入りそうでした。

 わたしは勇者さまを肩に載せ、肩から落ちないように必死に服の皺にしがみつく勇者さまを横目に見ながら、教会裏手の林を進みました。数刻ほど歩くと、突風と共に西日がわたしたちを刺しました。林を抜け、見晴らしのいい切り立った崖までたどりついたのです。勇者さまは、風に煽られてわたしの肩から落ちていました。長い髪につかまって、背中をぶらんぶらんと揺れていました。
 勇者さまを手のひらに載せ、胸の高さまで持ち上げ、ひらけた景色へあらためて向き直ります。下を見ると、広大な草原と森が緑の霞のように広がっています。靴の下から、土くれがころころと転がって落ちていきました。目のくらむ高さです。勇者さまにもそれは同じでしょう。

 ちょうど、はるか向こうの魔王山の向こうに夕日が沈んでいくところでした。魔王山はその由来のとおり、複雑な生き物めいた曲線を描いています。その隙間のひとつひとつから、赤い日差しが幾条も差し込んでくるのです。悪しきものどもの住まいであることを忘れるほど、幻想的な光景でした。
 手のひらのうえの勇者さまといっしょに、わたしは見惚れていました。すべてが変わってしまった勇者さまも、わたしと同じ風景を見ているのでしょう。大地と神さまは誰にでも平等なのです。
 わたしは夕日を背にし、手の中の勇者様をじっと見つめました。わたしの身体で光が遮られ、そこに濃い闇ができたため勇者さまのちいさな顔に顕れた表情はわかりません。わたしの貌もそうでしょう。そうであってほしいと思いました。わたしの顔に、醜い商売女の気配が浮かんでいたら――それを、勇者さまに見つけられたら。
 わたしは夕日だけが見守る中、勇者さまに顔を近づけました。豆粒のように小さく、小突けばそのまま胴体と引き剥がされてしまいそうな彼の頭部に、くちづけをしました。
 勇者さまがそれをキスと認識できていたかはわかりません。わたしの指先――彼にとって、木の幹のように太い――が触れるたび、彼の華奢で繊細な骨組みがさくりさくりと新雪を踏むような音を立てて壊れていくのがわかりました。けれど、止めませんでした。彼が壊れていくのと同じように、わたしの祭服のボタンは外れ、肌着のひもは緩み、理性は溶けていきました。
 視界の端に、はみ出した黒い数字の群れが踊っていました。

 いつのまにか日は沈みきり、いつのまにか新たな日が登っていました。
 朝日がじりじりと、きっと邪に染まってしまったわたしの身体を焼きます。はしたなくも脱ぎ散らかしたまま野外で寝てしまったので、いくつか虫さされが出来ていることでしょう。獣に襲われなかったのは僥倖というほかありません。
 力の入らぬ全身に鞭をうち、ほうほうのていで上半身を起こします。両足の間に生えているやぶが赤い血で濡れていました。わたしの大事なところを恐る恐る撫でてみると、触った指にやはりどろりと温かい血が付着しました。
 彼はいなくなっていました。まるで溶けたかのように。パチリパチリ、チカチカチカチカ。

「勇者さまは死んでしまった」
「死んでしまったんだよ」
 村の人達は今ではそう噂しています。実際そうなのでしょう。勇者さまはもういません。だから、わたしのやってることも限りなく一人遊び(ソロプレイ)なのでしょう。誰とも仲間の組めなくなった勇者は、どうなってしまうのでしょう。剣を持てなくなった戦士は、どこへ行くのでしょう。
 誰かがどこかでラッパを鳴らしていました。誰にも聞こえない音で。

 次のレベルまで、あと0.000152587890625だったとき、彼は正気が曖昧な状態でした。彼はわたしのことを魔王だと罵りました――意思の疎通が可能だったのです。わたしが手を近づけるとこう騒ぐのです。

 またよみがえったか いつつくびのりゅうめ。
 いいどきょうだ なんどでもそのくびをおとしてやる。

 わたしはその時たしかに笑っていたのでしょう。
 お望みどおり、彼と五つ首の龍の再戦を果たさせてあげました。
 もちろんレベルの足りない彼は首の一つにもかないません。たちまち肌色の龍に押し倒されてしまいます。
 ゆうしゃよ りゅうにまけたものは どうなるとおもう。
 指先で彼をつまみ、わたしの口の前まで運んであげました。
 さらわれた むすめは どうなるとおもう。
 彼を手のひらに載せ、それをだんだん傾けていきました。
 ラッパの音以外は、何も聞こえなくなっていました。

 次のレベルまで、あと0.00000475837158203125だったとき、わたしは、彼に信仰される女神さまでした。
 あのおそるべきいつつくびのりゅうをたおすため ちからをおかしください めがみさま。
 わたしは可能な限りに、荘厳な口調で彼に応えました。
 よろしいでしょう。しれんのどうくつへと おゆきなさい。そこに あなたのもとめるものが あるでしょう。
 あんないして さしあげましょう。
 わたしは彼を手のひら、ではなく指へ乗せました。彼は手のひらによじ登るのも困難なほどに小さくなっていました。
 わたしはスカートをたくしあげました。

 次のレベルまで、あと0.000000000――

 わたしは、『不死の願い』に干渉し、復帰場所を変更しました。

 経験値の弾ける音が、わたしの中から聞こえてきます。
 わたしは妊婦がそうするかのように、お腹を円を描いてさすりました。知っていますか? 命の弾ける音を。パチリパチリ、チカチカチカチカチカ、ちいさな星がひとつひとつ潰れていくような心地よい音がするのです。ひっきりなしに、黒い数字がわたしの視界を蠅のように飛び回っていました。彼は見えませんでした。ずっと前から、わたしは彼を見ることをやめていました。
 そうしてとろんとした気分になっていると、急にわたしの私服のワンピースがきつくなってきました。何事かと、衣服のボタンを外すのも間に合わず、びりびりと破けてしまいました。気がつけば、わたしのいる教会のこじんまりとした一室の天井に、わたしの頭がついていました。ここまでこじんまりとはしていなかったはずです。とても窮屈です。
 部屋が小さくなっているわけではないのは明白でした。みちみちという不快な音を立てて、私の身体が膨張します。それからほどなくして、私の身体は木造の天井をべりべりと破ってしまいました。
 あたりは夜でした。それは、つい先程まで教会の中にいたときからわかっていたことです。おかしいのは、夜だというのにすっかり明るいということです。闇が昼のようなのです。わたしの心の孔に、暗闇が全て吸い込まれてしまったかのような。

 足元では小指ほどのサイズの犬がキャンキャンと吠えたてていました。わたしが暮らしていた教会のチャペルがすでに胸元までの高さしか有りません。周囲の家々は両手で抱えて持ち上げられそうです。事態に気づいた村の人々が、そのちっぽけな箱から飛び出してきました。とても愛らしいです。当然ながらわたしは全裸でしたが、なぜか恥ずかしいとは思いませんでした。
 頭に違和感を覚え、手をやると何か硬質のものが生えていました。瘤? いいえ。触って確かめてみると、固く、ざらざらとして、曲がりくねり、先細った――角だということがわかりました。
 尻からも何か生えていました。身体をひねってそれを見ると、それはやはりしっぽでした。蜥蜴の尾から触手が生えたような、不気味なものでした。私の胴体ぐらい太く、私の身長以上ありそうな鈍重そうなものでした。

 いつのまにか、崩壊した教会はわたしの膝位の高さになっていました。それだけわたしが巨大になってしまったということでしょう。飢えを感じたので、しっぽを一周振り回してみました。そうすると、周囲の握りこぶしほどの大きさしかなかった家々はすべて消滅していました。しっぽを腰に巻きつけてみると、触手がちいさな家と木と人を絡めとっていたのでした。紙を丸めるようなささやかな音とともにそれらはしっぽへと取り込まれていきます。完全に食べつくしたとき、わたしは飢えが収まるのを感じました。
 数えきれないほどの人間を殺めてしまったことも、わたしにとっては大して重要なことではありませんでした。漆黒の闇に隠されていた夜のほんとうの姿を見ることができた感動が、あらゆる全てに優っていました。この世に必要なものは、なにもありませんでした。光がすべての闇を覆い隠しているという間違いだけがありました。
 パチリパチリ、チカチカチカチカ。
 とても楽しい夜が始まった。それをみんなにも伝えなければいけない。都に行こう。わたしが産まれたことを教えよう。世界は秘された希望に溢れていることも。狂ったようなラッパの音に共鳴するように、再び飢えが始まっていました。

 そうだ、子供を産もう。
 そして、世界の半分をあげよう。

 出会えた子に、わたしのすべてをあげる価値があると信じて。
 出会えなかったあなたのかわりになると願って。

 魔王山のかなたでは、祝福するように七色の星が愉快な踊りを見せていました。
 
(了)
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