『子犬にしてあげよう』(前)

   今はね 何も考えるなよ

 名前も付けてあげるよ

 海に入ろう 大丈夫だよ

 抱き上げてあげるからネ

(筋肉少女帯『子犬にしてあげる』より抜粋)

 バラックと錆びた鉄の箱が積み重なった無策城砦に雨は降らない。降る必要がないからだ。
 隙間の奥のさらに隙間、ヒトネズミが三匹肩を寄せて集まっていた。何も着ていないに等しいような擦り切れた服装、汚れやせこけた身体、光を失った双眸からは長い逃亡生活の疲れが見て取れた。鼠と言ってもそれは俗称に過ぎず、かつての獣の姿ではない。その姿は人間そのものだった。ある一点を除いては。

「ここまでくれば、あいつらだって追ってこない。ここは神の祝福を失った場所だからな」
「でもこれからどうしよう、トビ」
 灰色の空??この都市ではどこへ行っても空はぼやけた灰色だ??を仰いで影の一つの少女が声を溶かした。妙齢の少女だった。
「とりあえず様子を見に行ったコルロの帰りを待とうぜぇ」
 トビと呼ばれた壁に身を預けている青年が力なく答えた。無精髭のせいか、実際の歳よりも老けて見える。今にも目を閉じて眠り込んでしまいそうだった。
「でも、コルロたち二時間も帰ってこない。心配だよ」
「知らねえよ、あいつらなんて」
「なっ」
 トビはごろりと背中を少女のほうへ向けた。
「わざわざ様子を見に行ったのはあいつらだぜ。責任なんて持てるかよ」
「いつまでもここにいるわけにはいかないんだよ。トビ兄が脚を悪くしてるからコルロたちが行かなきゃいけなかったんだよ」
「うるせえなぁ。そんなにあいつらが大事なら、スナが行けばよかったんだよ」
「……」
 不貞腐れるトビの足には大げさに粗末な包帯が巻かれていて、確かに満足には動かせそうもない。

「お前らくだらんことで言い争いするな。体力がもたんぞ」
 口を開かずに座り込んでいた中年の男が二人を諌めた。
「だってオリス、トビが悪いんだよ。逃げ出してからこっち頼りなさすぎるよ」
「ガキが、生意気なんだよ」
「もう知らない。あたしコルロたち探してくる」
「よせ!」
「け、知らねえぞ??」
 そう言いかけるのと同時に、地面を巨大な鉄槌が交互に叩くような音と共に震動が伝わってきた。
「き、来た」
「コルロめ、見つかりやがったのか」
 震動を伴う音は段々に近づき、やがてそれは鉄の箱の影からのっそりと姿を現した。
 鼠たちの尺度で全長十メートルほどの巨体のヒトイヌが、四つん這いで哀れな鼠たちを見下ろしていた。

 ヒトイヌの胴体と四本の脚の先はクリーム色の毛皮で覆われていたが、それ以外は鼠たちと同じ肌を持っている。鼠たちの肌からは血の色が失われていたのに対し、ヒトイヌは健康的な色だった。満足に餌を与えられているのだろう。
 ヒトイヌは十代半ばの少女の顔立ちを持つ雌だった。その口には一匹の鼠がくわえられていた。偵察に出ていたコルロだった。彼の存在から鼠たちの隠れ場所を突き止めたのだろう。
 彼女は、怯える鼠たちを尻目に首を持ち上げ、口を開いてくわえていたコルロを噛み砕いた。小さな鼠たちのいるところまで、骨の砕かれる音と肉の引き裂かれる音、血の迸る音は響いた。咀嚼を終えたヒトイヌの口の端から、赤い血がつうと垂れた。見せつけているのだ、これから狩られる対象に。
 壁を背にして動けない鼠たちにヒトイヌが首を伸ばし、鼻先を近づけてきた。鼠たちのほんの一メートル匂いを確かめるように鼻を鳴らす。強烈な同胞の血のにおいは、口が閉じられていても漂ってくる。

「逃げるぞ!」
 オリスが叫び、駆け出した。その声に正気を取り戻したトビとスナは彼の後に続く。ヒトイヌは眠たげなまなこでそれを眺めていた。
 ヒトイヌの巨体を横切り、袋小路から脱出しようとする。脚をもつれさせそうになりながら、三匹が角を曲がろうとしたとき、風が起こり、大きな影が彼らを覆い尽くした。
 その轟音と衝撃を、トビとスナは何かの爆発だと思った。吹き飛ばされ尻餅をついた二匹に、飛んできた小さな砂粒が頬を打ち、熱い液体が顔にかかる。眼前の光景が理解できなかった。黒くなだらかな巨石がそびえている。底部からは赤い染みが広がっていた。
「????」
 聞き取ることはできないが、上空から何か声は響いていた。二匹の背後で、ヒトイヌがそれに吠えて応答していた。巨石からは、白い有機的な柱が天へと伸びていた。天は白い三角形の布と、それを取り囲むような革のベールに覆われていた。
 トビとスナに知識がなければ、それを人間の下半身であると認識することは不可能だっただろう。
 その事実と、オリスの不在から逆算して、彼はこの人間に踏み潰されて一瞬で絶命したということを二匹は理解した。

「あ、あ」
 スナはうめき声を漏らすことしかできなかった。トビは恐怖のあまり失神していた。
 肌色の柱がゆっくりと倒れるように折り曲がる。人間の下半身が眼前に迫り、巨体の生み出す影はいっそう濃くなる。スナの身長の二倍に近い高さを持つショーツの股布には肉がむっちりと包まれており、その存在を誇示していた。ヒトイヌが鼠の十五倍程度なら、この人間??おそらく少女だ??は三十倍以上にもなるだろう。
 スナは悲鳴をあげることも、立ち上がって逃げることも出来なかった。それだけ、巨大な存在に圧倒されていた。
 いや、違う。本来は自分たちだって人間と同じ大きさだったのだ。ただ五センチ程度の大きさに縮んでしまっただけで。

 *

 トビ、スナ、コルロ、オリス、キヌゲの五人は同じストリートに住むチンピラだった。クズ拾いから鼠退治、窃盗までなんでもこなす何でも屋あるいは犯罪者集団だった。まさか自分たちが退治される側に回るとは思っていなかったが。
 経験豊かなリーダー、コルロの元慎重に仕事をすませていたが、卓宣の巫女の首を取って来る仕事を受けてしまったのは明らかにうかつだった。危険過ぎることは四人とも仕事内容を聞いた時から理解していたが、三袋積まれた棒銭が迷いを生じさせた。報酬の釣り上げ交渉を交えて数分の相談を行った末、コルロの鶴の一声で受諾が決定された。

 スナとしてはあまり乗り気ではなかった。成功すれば狭苦しい路地を抜け出すことも不可能ではなかったが、彼女はけちな犯罪者としての生活に満足していた。日銭が稼げればそれでいいと彼女は考えている。不釣合いなことなどするべきではない。臆病なトビも口には出さなかったが、やる気のある表情には見えなかった。
 邸宅は罠が仕掛けられている可能性を考慮して却下。巫女の行動パターンを調べ上げ、もっとも人目に付きにくくなるタイミングの曲がり角で襲ったが、結果はあえて言う必要もないだろう。都市機能の一部たる巫女にとって、石畳、壁、樹木、そのすべてが罠となった。
 巫女は樫のステッキの先端に仕込まれた針で、倒れ伏した五人の首筋を順番に突いて回った。頚動脈近くに埋め込まれた管理チップの情報を改竄したのだ。ヒトとしての尊厳、権利、そして身長を剥奪され、二十グラムほどの鼠へと変わった瞬間だった。大柄なキヌゲの半分ぐらいしかなかった巫女は、背を伸ばしても脛に届かない巨大な女へと変貌していた。
 人権を失った五人はそれから二週間、巫女の慰み者にされた。

 一番体格の大きかったキヌゲがいなくなったとき、彼らは脱走を決意し、そしてそれは成功した。
 しかし、それもまた巫女の考えのうちだったのかも知れない。巫女は彼らが脱走してすぐ、在野のテイマーに懸賞金つきで捕獲依頼を出した。

 *

 トビとスナを捕らえた人間??テイマーは青白い照明が照らす事務所まで戻ると、腰のベルトに紐で繋いでいた二匹を冷たい石の床に下ろした。吊り下げられたままテイマーに歩かれ、二匹は何度も腿に激突してグロッキーになっていた。
 テイマーはブーツで二匹の側の床を乱暴に踏み鳴らし、意識を覚醒させようとする。丸まった体勢のまま踏みつけの振動で転がる鼠の姿は、まるで団子虫のようだった。
 面白くなってきた彼女は、命令の言葉を口にしながら雄の鼠の上方に脚をかざして、雲が動くよりも緩やかな速度で床へと近づけていった。無様に転がる姿をより長く楽しむために。

「××ナサイ、×××」
 人間の声がはるか天上から響きわたるが、鼠にはその言葉の意味は理解できなかった。あまりに体長の違いすぎる二者の間では、言語の周波数が外れすぎているのだ。もっとも、周波数が等しかろうが今の彼らには意味を勘酌する余裕など到底なかった。
 激しい地面の揺れに、二匹は立ち上がるどころではなかった。下手に動いて周囲を激しく叩きつける巨大な脚に踏み潰されてもたまらないので、縮こまった姿勢のままその場でバウンドするに任せるしか無い。転がるすえに、トビとスナの間に距離ができた。そこに一拍置いて、人間の建物ほどある脚が先程よりもゆっくりと持ち上がる。それは地団駄を繰り返さずに、トビの上へとスライドしていった。距離を離して、側面方向から見ることで、黒い巨石のようなものとしか思えなかったそれが巨大な少女の素足を覆う革のブーツだったのだと気づいた。

「××××××ナサイ、×××××、×××××シマウ」
 ニュアンスのレベルでしか理解出来ないテイマーの言葉も、トビの上へと移動した肉の柱と合わせれば何を言っているかはわかる。
「た、たすけ、てくれ」
 満身創痍のトビに哀れな声で助けを求められ、スナは苦々しい顔になる。誰が好き好んであの巨脚の影に飛び込もうと思うだろうか。しかし、それでも少女は言うことを聞かない身体を無理やり動かし、這いつくばってトビへと近寄り、引きずって動かそうとする。だが、自分よりも大柄な男の身体をそんな姿勢で満足に動かせるはずもなく、足の影から逃れることはできなかった。
 赤いどろりとした液状のモノが頭にかかり、上を見上げてみるとオリスの肉片と思われるものがブーツの裏にこびりついていた。
 間に二匹の鼠を挟んで、テイマーのブーツと床の距離がゼロへと漸近していく。
 圧倒的な質量が緩慢にトビとスナの全身を押し潰そうとする。二匹は恐怖と苦痛に絶叫しようとするが、ひゅうと肺から空気が漏れる音しか出せなかった。恐ろしい時、人は悲鳴をあげることすらできない。これほどの重量が、テイマーの少女にとってはほとんど体重をかけていないという事実にさらに恐怖が加速する。
 骨がきしみだして、数時間にも感じられる数秒後、ふいに圧迫がおさまった。二匹の体にはオリスの血の汚れが少し付着している。

「×××××××、××ナサイ」
 天から降り注ぐ声に、二匹はうつぶせに倒れ伏したままただ呆然とテイマーの身体を見上げていた。見上げると言っても、この姿勢と大きさでは彼女のスカートに覆われた腰以上は見ることは出来ないのだが。
「??×××サイ」
 ゆっくりと発音されて、二匹もようやく言葉の意味を推し量ることができた。??立ちなさい、と言っているのだ。きしんだ手足を動かして、二匹はどうにか立ち上がり、整列する。
「××シイ」
 声色からは満足した調子がうかがえた。肉色の二本の柱??テイマーの両脚が少しだけ前に曲がる。それとともに不可視の領域にあった上半身が腰を支点として折り曲がり、ちっぽけな鼠たちの立つ場所に影を作りながら姿を現す。このとき、鼠たちは初めてテイマーの全身??そして顔を見た。
 脚の情報だけである程度推測はついていたが、予想以上に幼かった。手足の比率が大きい全身も、オーロラのように長髪を垂れ下げさせるその相貌も、十四を数えるスナと比較してみても二回りは小さく、あどけない??それはもちろん、スナが人間だった頃の話で、彼女はスナを手のひらに収められるほどの大巨人だ。巨大な宝石のような黒い瞳がくりくりと動いて、矮小な二匹を嘲っていた。

 テイマーは屈んで両手を突き出し、立てた人差し指を逆さまに鼠の目の前の床に突き立てた。命令の言葉はなかったが、鼠たちは人間の意図を察することができた。のろのろと近寄り、全身で自分たちの胴回りほどの太さがある人差し指へとしがみついた。それは自分たちの身長が、十と少しを数えるほどでしかない少女の人差し指の長さほどでしかないということを知らしめさせられる儀式でもあった。
 二人がしがみつくと、指は急速に??本人にしてみればゆっくりのつもりだった??上空へと昇っていく。その過程で重力が反転し、彼らは悲鳴を上げる。指先が上になったのだ。振り落とされては無事では済まない二匹は、必死に指へしがみつく。回転する視界の中、紙がこすれるような笑い声が聞こえた。

 胸の高さまで持ち上げられた二匹を、黒耀の瞳が見つめていた。今のスナ達は不恰好な指人形か、さもなくば棒飴だ。後者ならその末路はひとつ??あまりに遠かったテイマーの顔が近づき、スナは想像してしまう。自分がしがみついている指があの大きな唇に近づいていくのを。血の匂いのする大口が目の前で開いているのに、それでも腕を離すことが出来ない自分を。赤黒い洞窟に自分を置き去りにして、指が去っていくのを??そんな恐ろしい妄想を、スナは止めることができない。
 それはどうやらトビのほうも同じだったらしく、彼の方を向いてみるとトビは下半身を濡らして震えていた。
「××××!」
 鐘が打ち鳴らされるような音が響いた。テイマーの口が開閉していることから、彼女が笑っているのだろうと察することができた。
「×ー×、×××ケレバ。×××」
 おそらく、最後の単語はヒトイヌを呼んだのだろう。音を立てずに、コルロを喰い殺したあのヒトイヌの娘が犬らしく四足歩行でにじりより、テイマーの足元に座った。俯瞰すると、ヒトイヌの体長はテイマーの人間の半分程度しかない。もちろん幼いわけではなく、縮尺の問題だった。
 ヒトイヌは厳密には人でも犬でも無い。人のような猫のような犬、といったところだろうか。人間として生きる資格を失ったものがヒトイヌへと落ちる。
 ヒトイヌとしても不適切とみなされた人間は。

「×××オイテ」
 テイマーが何か命じて両手を腰のあたりまで下げると、ヒトイヌが後ろ足で立って背を伸ばし、二匹に口を近づけた。
 迫るヒトイヌの顔に、喰われると恐怖してスナはひっと短い悲鳴を上げるが、ヒトイヌの娘は犬歯の一つ一つで器用に二匹の襟首をひっかけて四足歩行に戻った。急激に上下する高度にスナは頭をくらくらとさせる。
 視界が上下に揺れ動く。そのまま二匹を口にくわえたまま、ヒトイヌの娘はぺたぺたと肉球を鳴らして事務所の隅へと歩いていった。
 ぽとり、と鼠たちが落とされたのは飾り気のない金属の皿??彼らにとっては部屋ひとつほどの広さに相当する??の上だった。呆然とした様子のヒトネズミたちを、一匹一匹巨大な肉球で抑えつけ、器用に口で服を脱がしていく。三分としないうちに彼らは下着に到るまで脱がされ、生まれたままの姿になった。あっけに取られている二匹の頭上を、巨大なヒトイヌの肢体が唸りをあげて通過し、やがて股間の部分がちょうど彼らの真上に来るところで停止した。尻尾がふりふりと左右に揺れているのが見える。ヒトイヌはヒトに似た容姿ではあるが、身にまとうものは自前の毛皮だけで、衣服は一切着用していない。鼠たちと同じ全裸だった。つまり丸見えだった。
 スナとトビの顔から血の気が失せる。ぶるり、とヒトイヌの下半身が緊張に震えたかと思うと、それは噴射された。

 ヒトイヌの黄色いシャワーは正確に鼠たちを狙っていた。まずトビ、次にスナの顔面に水流が直撃し、第一に棒で顔面を叩かれたような痛みを覚え、遅れてアンモニアの激臭が嗅覚を支配した。一般にヒトイヌの尿はヒトのそれよりも濃い。サイズが小さく嗅覚が敏感になっていればなおさらだ。朦朧とする意識の中、二匹は何一つ抵抗できず、水圧に任せるまま皿の中を滑っていった。よっぽど溜まっていたのか、水位が上昇し、尿の流れるプールと化した皿にスナ達の身体は浮かび始めた。そこに再び鉄砲水が直撃し、皿の底へと沈む。浮かぶ。沈む。視界が端の方から消えていくのを自覚していた。
「キレイ、キレイ」
 鈴を鳴らすような心地よい、聞いたことのない笑い声が聞こえる。スナがヒトイヌの頭の方向へ視線をやると、逆さまになった娘の顔が会った。笑っていた。感情の振れ幅が限りなくゼロに近づきつつあるスナには、なぜかそれに安らぎを覚えた。

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