『子犬にしてあげよう』(後)

「『ヒトイヌの愛液や尿をたくさん飲みなさい。そうすればあなたはヒトイヌになれる』」
 は? と思わず無礼にもスナは聞き返してしまった。それだけテイマーの言葉は信じがたい内容だった。
 風の噂でそういう話は聞かなかったわけではなかったがあまりにも常軌を逸した話だし、確かめるすべもなかったのでスナはよくある与太話だと思っていたのだ。
 ヒトイヌを操り、ヒトネズミを狩るテイマーのみが知らされていることらしい。ヒトイヌは任意で街の住人のサイズに作用するような液を排泄することができ、それを浴びることでヒトネズミは巨大化し、ヒトイヌになれるという。ただし巫女の杖のような即効性はなく、数カ月単位で効果が顕れる。

 この街には懲役や禁固の制度は存在しない。代わりに、罪を犯した者はヒトネズミに落とされる。ヒトイヌはさしずめその看守役となる。その強化された嗅覚はヒトネズミを見逃さず、確実に捕らえる。かわりに、真面目に『奉仕活動』をこなす『模範囚』には褒美を与えるのだ。逆に、さらなる罪を重ねたもの、反省しないものには??。
 それだけ教えると、テイマーとヒトイヌは寝床に戻っていった。
 傍らには、のんきに眠りこけているトビの姿があった。
 今から叩き起こし、その事実をこの兄貴分にも教えてやるべきかどうか、スナには迷った。これまでの非道、そしてかつての優しかったトビの思い出が脳裏にちらつく。身体が弱かったスナを、トビは弱肉強食のスラムで周囲から身を呈して守ってくれていた。実際に血のつながりがあるわけでもない、ただ、『仲間だから』というだけで。苦難と屈辱の日々でどれだけ心が冷えきろうと、その蛍火のように温かい思い出はずっとスナの精神を照らし続けていた。
 だから。

 *

 スナの巨大化を呆然と見守っていたトビは、さらに変化が起こっていることに気づいた。
 まず、陽炎のように視界が歪んだ。すると、驚くことに高くそびえ立つスナがますます高くなっていった。
「始まったみたいね」
 再び巨大化が始まったのかとトビは思ったが、それはすぐに違うと分かった。自分のいる白い皿が、どんどん広がり始めていったからだ。巨大すぎるスナが、さらに触れえざる存在へと化していく。見上げる首の角度が上がる。
 ??縮んでいるのだ、トビが。卑しい鼠が、さらに卑小な存在へと身を転じていく。空気の比重が変わっていく。存在の意味が変わっていく。妹分の少女が怪物のような巨大な少女に、そして怪物という言葉では表すことの出来ないほどの圧倒的な何かに。

 *

 スナの巨大化とトビの縮小は程なくして終わり、ぼうっとスナは白い餌皿を眺めていた。こんな小さな皿で今まで自分が暮らしていたことを、スナはにわかに信じられないでいた。
 スナの三十分の一の大きさとなったトビは我に帰ったようでなにかわめいている。ゴミのように小さな灰色の獣??もはや虫のような大きさだが??がきぃきぃと騒ぐ煩さを早く終わらせたくて、彼の上に前足を軽く乗せようとする。トビはあっさりと前のめりに倒れて、スナの前足の下敷きとなるが、静かにはならない。むしろ、手足を動かしてもがきながらより激しく騒ぎ始める。
「ちょっとは落ち着いてよ、トビ兄さん。小さくなるなんて初めてじゃないじゃん」
 たしなめて、トビが足裏から這って脱出するのを待つが一向にその気配はなく、スナは訝しむ。全く体重はかけていないというのに。
「からかってるの、トビ兄? 怒るよ」
 上ずった声の調子に反応したのか、トビはさらに必死に手足をバタつかせる。が、トビはスナの脚の下からほとんど動けていない。
(ああ??そっか。トビ、とっても弱いんだ)
 このまま、もし少しでも体重をかけてしまったならば、彼はどうなるだろうか? 自分の耳がひとりでにぴくりぴくりと動いた。
 急激なサイズの変転にスナは若干戸惑っていたが、それもさほど長い時間は続かなかった。自分より圧倒的に小さないきものにどれだけ価値がないか、どう扱うべきか、どう弱いか。ご主人様たちに三ヶ月かけてねっとりと教育されていた。訓練は歴史であり、歴史はときに現在を凌駕する。

 スナは足の裏の肉球で器用にトビをつまみ、目の前まで持っていく。まだトビは、広げた足裏に少し余る程度には大きかった。頭の上の犬耳をぴくぴくと動かし、トビの小さな声に耳をすます。どうやら、巨大化と縮小化の秘密を知っていたのはなぜか、どうしてそれを黙っていたのか、ということを聞きたいらしい。
「なんで教えなかったからって? ……トビ兄を愛してたからだよ」
 スナは困ったように笑う。まるで、片想いの恋人が自分の思いにようやく気がついた時のように。
「仕事にしくじってから??ヒトネズミにされてから、あんたはどんどん卑屈に、暴力的になっていった。最初は、いつか元に戻ってくれるのを信じて待ち続けてた。だけどそうはならなかった。もう、優しかったあのころのトビ兄を汚させたくなかった。虫のように小さくなってしまえば、どれだけ嫌なことをしようと、もう汚せはしないから。言っておくけど、あんたはもっと小さくなっちゃうよ。ヒトイヌへの巨大化はこの一回で終わるけど、縮小化は分泌物を浴びるたびに何度でも小さくなるから」
 ヒトイヌやヒトネズミと違い、ヒトムシの大きさがまちまちなのはそういう理由だった。

 人の形をしたいきものの、醜悪な声が桃色の耳を通りぬけ、スナを犯そうとする。この声が聞こえなくなれば、どれだけ気が晴れるだろうか。どれだけかすかなものになれば、この男を許せるだろうか。
「人間様とヒトイヌに楯突いた罰を受けただけじゃない。わかる? 身体が小さくされると、心まで小さくなってしまう。私は大きなご主人様の寵愛を受け続けたから、そうはならなかったけど。大きなものはそれだけで偉大で、小さいものにはそれ相応に価値がないんだよ。小さくされた時点で、私たちは一度死んだの。奴隷として、もう一度生まれ直したの。ヒトイヌに飼われる権利を得たの、あなたたちは」
 スナの返答に、憤怒の余りか、トビは言葉を発さずにスナの手の中でわなわなと震えていた。これだけちっぽけになっても、自分がまだ怒ったり泣いたりと、知性あるいきもののように振舞うことができると信じているらしい。その思い上がりは、修正しなければいけない。

「あ、ヒトイヌになれたのね、おめでとう」
 テイマーが茶色の毛皮のヒトイヌを連れてスナたちの前に現れた。あれだけ巨大だったはずのサクラの名を持つヒトイヌは、スナと同じ大きさになっていた。
「おめでとう、スナ」
「ありがとう??サクラ。私にチャンスをくれて」
「別に、スナだからあげたんじゃないよ。スナが道を間違えなかったからだよ」
「うん、わかってる」
「そっちの虫は……三センチぐらいになったのかしら」
 テイマーが、かがみ込んでトビを掴むスナを片手で抱き上げた。あいかわらず見下ろしてはいるが、コンタクトの取り方は直接的だ。それに気づいて、スナの胸が熱くなる。トビはといえば、自分にとって大きすぎるスナを軽々と持ち上げられるテイマーの少女に改めて恐怖していた。
「これ、どうしましょう?」
 ふむ、とテイマーは空いた片手指でトビの頭をつつく。スナの二倍、つまりトビの六十倍、メートルにして百メートル相当の少女の指はトビの頭以上の太さがある。
「好きにしていいわよ。あなたの獲物でしょ?」
「ありがとうございます、ご主人様!」
「じゃ、私は席を外すから。あとは二匹でよろしくやっててよ」

 テイマーは去り、顔を星のように輝かせているスナは前足の中のトビに向き直る。
「ね、トビ兄。キスしない?」
 トビは首を横に振った。横幅が自分の背ぐらいある唇に接したいとはトビは思わなかった。ずっと前は、幼いスナがトビとの恋人ごっこでくちづけを頻繁に求めていたことをトビは思い出せなかった。
「わからないかな? キスしてくれれば、その間だけはあんたをトビ兄扱いしてあげるっていうんだよ? トビ兄だからあんたはギリギリ虫じゃなくいられるんだよ? 選択肢なんてないんだよ?」
 トビを乗せる足の小さくも鋭い爪が、処刑台のように冷たく輝いている。トビは今度は風が起こりそうな勢いで首を縦に振った。もっともスナには鼻息程度にも感じられないが。
「じゃ、キスしよ。いつもみたいに、乱暴にしていいからね」
 スナは手のひらを水平にして唇の下に運び、眼を閉じる。トビはスナに口付けるために、ぷにぷにとした肉球の足場に転びそうになりながらもスナの赤いクッションのような唇へと近づく。そして背を伸ばし、キスを……できない。手のひらと唇の位置は、ちょうどトビの身長分離れていた。
「あれ? トビ兄、やっぱり私とキスしたくないの? いつもはあんなに積極的にしてくれるのに。病める時も、健やかなる時も♪」
 パチリと目を開けると、手のひらで自分の唇に向かって一生懸命に背伸びを繰り返すトビの姿があった。スナはあまりに面白すぎて噴出し、その勢いでトビを転ばせてしまう。

「しかたないなあ、私からしてあげるよ」
 横たわるトビの頭を口の先で軽く持ち上げ、唇で挟みこむ。顔が唇で埋もれ息の出来ないトビはジタバタと手足をもがかせる。その様子をしばらく眺めた後、スナは一気に、ちゅるりとトビの全身を吸い込んでしまう。ちょっとしょっぱい。全身が自由になったトビは、今度は口の中でドタバタと暴れ始めたのでくすぐったくてしょうがない。
(もう、飲み込んじゃうよ?)
 それでは楽しみが終わってしまうので、スナは舌を持ち上げて一旦口蓋へとつけた。トビにとっては地面が急に持ち上がったように感じただろう。そして、舌の裏で口の中にトビを抑えつけてやる。トビはもちろん暴れるが、暴れれば暴れるほどスナの構内には唾液が溜まっていく。加えて、トビの上でぬるりぬるりとささやかに舌を動かしてやると、目に見えて抵抗する力は落ちていく。
 窒息する瀬戸際で、スナは頭だけを唇の外に出してやる。首から下は口の中に残されたままだ。唾液とその泡にまみれたトビは、たっぷりと飲み込んでしまった粘液を吐き出し、必死に呼吸して肺に酸素を取り戻す。
 そうしていると、サクラがスナの正面に回ってとんとんと自分の唇を指で叩いた。
「私も」
 こくん、と首肯してスナはトビをくわえ込んだまま唇をサクラに近づける。自分の頭よりも大きい唇が再び迫ってくるのを目の当たりにしたトビは悲鳴をあげたが無意味だった。トビの頭がサクラにくわえられ、全身が吸い込まれ、そしてそのベッドのように大きな舌で全身を弄ばれる。
 舌というグロテスクな触手に嬲られ、溺死する寸前で再び呼吸を許され、そしてもう片方の口へと唾液とともに交換されるする。こうして、何度も三匹のディープキスは繰り返される。
 トビはこの間、ヒトでも獣でも虫でもなく、ただの唾液となっていた。愛しあう二匹の間の橋となり、口の中で揉みしだかれ、うっかりすれば飲み込まれてしまう、唾液に。

 十分後、ようやくトビは解放される。味のなくなったガムのように、スナの口からぺっと吐き出され、金属の皿へと着地した。全身がどろどろにふやけていた。
「そこ、どこだかわかる?」
 トビはこの冷え切った感触に覚えがあったが、手足はもう言うことを聞かない。
「私がきれいにしてあげるね、スナのお兄さん」
 サクラが金属皿をまたぎ、股間をトビに向けた。
 しゃあああ。
 淡黄色のシャワーがトビを直撃した。全身がバラバラになりそうな水圧を受け、トビは絶叫を上げる。いつもの半分の大きさになってしまっているため、シャワーの量も威力も二倍以上になっていた。たちまち水位がトビの身長ほどにまで達する。激流に翻弄されながらも、どうにか皿の縁までたどり着き、這い上がろうとするが、
「だーめ」
 脇でシャワーを見守っていたスナが手でトビを黄金の池に突き落とした。
 トビは再び、皿の中で渦を巻く尿の流れに弄ばれる。
「あはははっ」
「あはははっ」
 尿の激臭に意識を失いかけているトビの耳に、楽しそうな笑い声がサラウンドで響く。

 数分後、サクラによって皿をひっくり返され、尿ごと排出されたトビは再び視界が歪み、足元が揺らぐような感覚に襲われた。
「まさか」
 再び、息づく音が大きくなり、世界が急速に膨らんでいく。めまいが終わったあと、そこにはさらに巨大にそびえるスナとサクラがいた。
「わあ、小さくなった。でもまだ表情がわかるんだねえ」
「ふふっ。どれぐらい小さくなっちゃったのかな。比べてみようか」
 ズン、と地面を震わせて柱のようなサクラの足がトビのすぐ側に降ってきた。位置が少しずれていれば、トビの全身は踏み潰されていただろう。今度は、力をかけなくても。
「あはっ、もう肉球のひとつと同じぐらいしか無いや」
 サクラは実に楽しそうに笑う。

「ね、ね、今度はセックスしよ」
 スナは前足を裏返し、肉球を表に向け、乗るようにトビに促す。トビが身長ほどある足の厚みに苦戦しつつよじ登ったのをほくそ笑みながら見届、膝を立てて前足を開いて座り込み、股間の盛り上がりへとトビを落とす。
「ほら、お願いね」
 両前脚で陰部の端を引っ張ると、トビを何人も飲み込めそうな肉の亀裂が水音を立てて拡がり、彼を取り込む。

 トビが秘所に奉仕する中、スナは自作の調子っぱずれの歌を歌っていた。スナの背中で、尻尾が横に揺れている。
「良いときも悪い時も♪ 富める時も貧しき時も♪」
 もたもたと、トビは身体の半分を陰唇にうずめたまま、自分の頭ほどある陰核を乱暴にこする。せいいっぱいの力の込められたその摩擦も、スナを感じさせるには至らなかった。それでも、自分の大事な場所でトビが必死に自分を感じさせようとしているという事実が、彼女を満足させる。
 ふと、トビの周囲が薄暗くなる。濃密な気配に振り返ると、トビのすぐ上でサクラが大きな口を開けていて悲鳴をあげてしまう。視界いっぱいに広がった口の奥、喉の鳴る音は過去に食われたものどもの怨みの声のようにも思えた。
「何、よそ見してるの」
 きつい口調で怒られ、トビは真っ青な顔のまま、サクラの恐ろしい口を背にして壊れた機械のようにスナに奉仕を続ける。
「怖がるなんて失礼だよね。女の子が口を開けてるだけなのに」
 サクラが、トビの全身ごとスナの陰唇を舐める。トビは女の子のように甲高い嬌声を上げる。
 サクラは、この虫の尻に爪の一本を無理やり突っ込んだらどんな声で鳴いてくれるのか試したかったが、それはしなかった。ひとのおもちゃを傷つけるのはマナー違反なのだ。

 サクラが舌を這わせると、トビの奉仕にはまったく反応を見せなかったスナが全身を震わせて感じる。トビはまるで大地震に見舞われたかのように陰部を転がりまわる。もはや奉仕どころではなかった。
 そして、ダムの決壊のごとくスナの秘所から愛液が溢れ出した。それは下流にいるトビにまともに浴びせられ、股の下へと転落する。
 さらに、視界がゆがむ。三度目の縮小が始まる。明らかに、ペースが速くなっている。
 トビの視界は、スナの下半身で埋め尽くされていた。目線より少し高い位置に、大きな菊門が見える。はるか頭上には、トビを吐き出した陰部がまさに丘のようにそびえていた。どれだけ首を痛くして見上げても、スナの臍すら見ることが出来なかった。圧倒的に巨大なこの存在が、少女の身体のほんの一部分でしかないという事実が信じられない。全体像を確認しようと、そしてできるだけ彼女から遠くへ離れようと後ずさろうとするが、こぼれた愛液に全身が絡まって、ハエ取り紙にひっかかった虫のように身動きがとれない。
「……あれ? どこに行っちゃったのかな」
 トビが愛液を飲んで縮み、さらに死角へと転がり落ちたことでスナとサクラはトビの姿を見失ってしまっていた。尻を設置させた姿勢から四つん這いの基本姿勢に戻り、トビを探す。
「トビ、どこー? いたら返事して」

 *

 突如、目の前に鎮座していたスナの巨躯が唸りをあげて動き始めた。愛液の罠がなければ、ただ姿勢を変える、それだけの動作で発生した空気の動きにゴミのようなトビの身体は宙に巻き上げられていただろう。
 サクラまでが四足で立って歩き出しはじめる。それは荘厳な光景だった。数十メートルもの八本の巨大な肉の柱が、自分を求めて上下に大振動を起こしながら動いているのだ。幼い犬少女の華奢でしなやかな脚はしかし、トビを数百回潰せるだけの重量を秘めている。そんなある種幻想的とも思える有様に、トビの正気は失われようとしていた。
「トビ、×××? ×××××××」
 とっくに、スケールの違いすぎる彼女らの言葉が認識できないでいた。会話ができない、というのは思ったより恐ろしい。説得も懇願もできず、ただ彼女たちに一方的に陵辱され支配されるしか未来が無いことを意味している。これだけ小さくなると、ジェスチャーですら判別されなくなってしまうかもしれない。
 ここだ! ここにいるんだ!
 叫んでみるが、もちろん彼女たちのはるか高みにある耳には届きはしない。
 動きまわって自分の存在をアピールしようにも、振動が激しすぎて立ち上がることすら出来ない。もともと、まとわりついた愛液でまともに動くことはできないのだが。
 そうこうしているうちに、スナの巨大な脚はどんどんこちらに近づいている。
 トビをまとめて数匹踏み潰せる巨大な足裏が視界の全てを覆い尽くす。かつてはスナの身体が天井のようだったが、今では彼女の足裏一つが天井といえる大きさだった。

 *

 二匹はぺたぺたと歩きまわって、トビの姿を探していた。ただ歩くだけという行為が、どれだけトビを恐怖に晒していたかは想像に至らなかった。
 ぴちゃり。
「ん?」
 そうこうしているうちに、スナは右後ろ足の下に違和感を覚えた。
「ひょっとして……」
 後ろ足を上げて、サクラに見てもらうと、それは案の定愛液まみれのトビだった。
「うわあ、ちっちゃい。これ、本当に生きてるのかな」
 トビは、スナの指球と掌球の間の溝に入り込んでいたため、潰されずに済んでいた。彼のあまりの小ささと愛液のぬめりが、彼の命を救った。人間の尺度で言えば一センチちょっと、ヒトイヌの尺度で言えば六十分の一程度。
「今、私達のこと百メートルぐらいに見えてるんだね。百メートルって、この街の建物を何個も重ねてやっとその大きさなんだよ。そんなに大きい女の子に愛されてるなんて、スナのお兄さんはうらやましいなあ」
「うん。私も、三十倍ぐらい大きいサクラにかわいがってもらったときは、とても嬉しかった。その三倍ぐらいすごいって、どれだけだろう」

「……ねえ、生きてる? 返事がないなら、舐めとっちゃうよ?」
 足の溝でピクリと手足を動かすのを見て、サクラはくすりと笑う。
「よかったあ。まだ遊べるよ……あ、また縮んだ。もうご飯粒みたい」
 四度目の縮小。身体が小さくなるにつれ、縮小に必要な分泌液の量の閾値は加速度的に低くなっていた。もはや彼は肉球の一つ一つよりも小さい。膣の皺の一つよりはまだ大きい。口に放り込まれれば、彼女たちの牙の裏に張り付いてしまうだろう。
 スナは上げていた足の向きを元に戻す。すると、重力に引かれてトビが粘液と共にゆっくりと落ちていき、ぺしゃりと着地する。それにそっと前足を乗せて、自分たちの百二十分の一となったトビを取る。愛液の粘着力に勝てなくなったトビは掴むまでもなく手に取れるのだ。このレベルになるとヒトの形で認識というよりも色のパターンでしか認識できない。このサイズが相手では、一人遊びに限りなく近くなってくる。
「でも、ここからどうしよう。スナのお兄さん小さくなりすぎちゃって、もう使い方が思いつかないよ。ヒトムシだし、お尻の中にでも入れてみる? ぎょう虫プレイだよ」
「うーん、お尻……。あ、そうだ、いいことを思いついたよ、私」



<共に歩み、他の者に依らず、死がふたりを分かつまで♪>
 トビは、愛液溜りの上に仰向けに浮かんでいた。愛液の雫はもはやトビには大きすぎて、溺れることすらできなくなっていた。こうして全身で愛液に浸かり続けるかぎり、ゆるやかに縮んでいくのだろう。
 自分が置かれている場所は、きっとスナの肉球の上なのだろう。教室のように大きいが、黒い肉球が五つ配置されているからそれでわかる。
 激しい嵐のような轟音が響いている。きっと巨大な少女たちが会話しているのだろう。もしくは、単に呼吸しているだけなのかも知れない。天上にも等しいヒトイヌたちの言葉を認識することが出来ないから、区別がつけられない。奈落のような赤黒い洞穴がゆっくりと開いたり閉じたりしているのが見える。おそらく口であろうそれは開くたびにトビの周囲の大気を湿らせ、身体を濡らす。その上の方にある、黒い月のような二つの球体がきっと両の瞳だ。こちらを眺めているのだろう。大きすぎる少女の顔は、一度に部分部分でしかとらえられない。
 犬の獣臭と少女の甘酸っぱい体臭が混じり合った複雑な匂いがトビの全てを支配していた。
「スナ……??さ、ま」
 足を軽く動かすだけで自分をすり潰すことができる、自分の妹分が恐ろしかった。その恐怖は、徐々に崇拝へと形を変えていく。
「神様にしてしまって、ごめんなさい」
 彼女は自分にとっての世界なのだ。彼女の息は雨であり、声は嵐であり、瞳は太陽であり、肌は大地なのだ。なぜ、もっと早く気づけなかったのだろう。
「力になれなくて、本当に」
 
<愛を誓い、わたしを想い、わたしのみに添うことを♪>
 世界が動く。トビを乗せる大地が降下する。身体が浮き上がり、バラバラになってしまいそうな感覚に襲われるが、そうはならない。トビを包み込む愛液が、彼を衝撃から守ってくれた。
 大地が傾き、トビは鏡のように銀色に輝く平地へ下ろされる。
 以前訪れた時と大きさがあまりにも違うが、この場所はまだ覚えている。あの金属皿だ。愛液のとりもちがなくても、逃げられはしないだろう。皿の縁は、もうトビでは乗り越えられない絶壁と化しているのだから。鼠のように巨大だったあのころ、皿にうずくまる自分は餌のように見えていたらしい。今は、どうスナ様の目に映っているのだろう。自分は、彼女の何になれたのだろう。何でいられるのだろう。
 天を仰ぐと、天地逆になった草原のように広がる彼女のクリーム色の毛皮と、毛皮に包まれていないすべすべとした雪原のようなお腹が雲のように浮かんでいる。四方には、銀の絶壁の遥か彼方にオベリスクのようにスナ様の脚が並んでいるのが見える。
「心の準備はできた?」
 スナ様のお言葉がわかる。それはトビの知性が燃え尽きる前の最後の輝きだったのかもしれないし、単に思い込み、幻聴だったのかもしれない。影が狭くなり、代わりに濃くなる。スナ様が身体を突っ張ったのだ。巨大な尻が、隕石のように近づいてくる。

「ねえトビ、試してみようよ。きみはどこまで小さくなれるのかな? どこまで生きたまま、哀れな存在になれるのかな???」

 頭上で何かが破裂するような爆音が聞こえた。一瞬遅れて、黄金色の津波がトビを飲み込んだ。

 天変地異が起こっていた。視覚以外の感覚はほとんど麻痺していた。その視覚もそろそろ当てにならない。色覚を半分失い、濃い黄色だったはずの海が淡いレモン色に見えてきているし、なにより未だはるか天上にあらせられるはずのスナ様の姿が見えなくなってしまっている。それどころか、海の終わりである銀の断崖が四方どこを見渡しても見えない。本当にここは、あの金属皿なのだろうか?
 温かい海はしけが収まれば、さほど苦にはならなかった。今のトビは軽すぎて、慎重に動けば水面の上に立てるのだ。表面張力のなせる技だった。
 しかし、ここからどうすればいいのだろうか。ただじっとしているだけでも、足元の海から立ち上る蒸気で体力は奪われていく。とにかくどこかへ向かうしか無い。トビは黄色の海を必死に泳ぐが、どこまで泳いでも風景は変わる気配を見せない。

 途方にくれているトビを突風が襲った。いや、突風などという生やさしいものではなかった。風の砲撃とでも言うべきかも知れない。ともかくそれは、海面を削り飛ばしそれごとトビを遥か彼方へと運んでいった。
 奇跡的に怪我一つなかったトビは、どこまで飛ばされたのかとあたりを見渡す。すると、蒸気の霧の向こうに巨大な影が見えた。
 あの風は、この場所を教えてくれたのだろうか。他に行き着く先を知らないトビは、そこに海面を這って近づいてみる。霧が晴れると、それはレモン色の海にぽっかりと浮かぶ島だった。草木一つ見えやしない、土だけの島だった。あたりの海よりも高い温度であるらしく、一掃濃い湯気を立ち昇らせている。地獄のように蒸し暑いだろう。

 しかし、どんな場所でもこの海よりはマシだ。トビは、意志を決して上陸することにする。島の側面は崖になっていたが、切り立ってはおらず、また土は柔らかくトビが手を突っ込んで穴をあけられるようなものだったので、よじ登るのに苦労はしなかった。
「や、やった……助かった……」
 島のてっぺんまで登ってわかったが、この島は全体としてみると細長い楕円状の形状をしているようだった。島、というよりは横倒しになった丸い柱に近い。そして、この島には草も木も、起伏すらもない。正真正銘、土だけの不毛の大地だった。
 ここ以外に島は見えない。四方八方、どこを見渡しても湯気立ち込める海しか無い。探しに行けばあるかもしれないが、それは無謀だろう。
 ひとまずひと息つくと、自分の腹が派手に音を鳴らした。あたりに食べられそうなものは??ない。
 ……この土は、食べられるのだろうか?
 恐る恐る足元の熱くやわらかい土をすくい、口に運ぶ。味覚も嗅覚も失われているので、幸か不幸か味はわからない。ただ、自分のエネルギーになっていることは感じられた。それに??
(なんだか、懐かしい感じがする)
 もう一掬い、もう一掬い。腹が満たされるまで、それを胃に収めた。
「……ふう」
 満腹になったトビは、島の熱い土の上にごろりと横たわった。今日はあまりにも疲れた。明日のことは、明日考えればいい。トビの意識は、ゆっくりと落ちていった。

 *

 スナとサクラの二匹は、笑いを堪えるのが必死といった表情で金属のトイレ皿の中を見つめていた。
 そしてサクラが、耐え切れなくなって全身をひっくり返して大笑いし始める。
「ぷ……あは、アハハハハハ! スナのお兄さん、傑作すぎる! 爪垢みたいに小さいから、きっと島にでも見えたんじゃない? 新大陸発見、ってね、アハハハハハ!」
「ぷっ……くすくすっ」
 スナもおかしくて仕方なさそうな表情で吹き出して笑う。
 皿の中には、なみなみと注がれたスナの尿、そして中央には??、一本の大便が鎮座していた。その真中には、ちょこんと白い点が乗っかっていた。二匹には彼の大きさを測ることは出来なかったが、トビはそのときわずか○.三ミリメートルになっていた。サクラは爪垢みたいと評していたが、実際には砂粒は彼にとっては岩のように大きいだろう。
 八十センチメートルのヒトイヌのおよそ三〇〇〇分の一の大きさ、質量にしてたったの二七〇〇〇〇〇〇〇〇〇分の一である。指球の一つですら彼には高層ビルのような絶壁と化すだろうし、座っている彼女たち自身なら数千メートルの大山脈になるだろう。

「自分の妹のうんちの上に登っちゃってるよ、彼! よっぽどスナのことを愛していたんだね」

 スナは赤面するが、サクラの笑いの発作は収まることをしらない。
「やめてよ、恥ずかしい……」
「スナのお兄さんがおしっこにぐるぐる流されてる時、おもいっきりその上で力んでたひとが何を言うんだか。そのままそれで圧し潰しちゃうのかと思った」

 そう、トビが海抜三十メートルほどの島だと思い込んでいたのは、スナが皿に直接盛りつけた彼女の産みたてのフンだった。全体の太さで言えば、百メートルぐらいには相当するだろう。
 スナとサクラは、トビのいる皿にスナが用を足し終えてからのトビの顛末を、ずっと見守っていた。トビが皿の縁やスナやサクラを見ることが出来なかったのは、尿で身体が縮みすぎて肉眼では認識できなくなったからだ。
 サクラは、動かなくなってしまったトビ??実際には必死に動いていたが、サクラにとってそれは動いていないも同然だった??がつまらなくなって、フッと軽く息を吹きかけて??トビにとってはとんでもない暴風だったが??中央に浮かぶスナの大便まで運んでやった。激臭にのた打ち回る姿が見れると思ったのだ。
「溺れるものはわらをも掴むって昔のことわざにあるけど、うんちに捕まる……いや、登るとはね。助けの船みたいにでも見えたんだろうねえ、実際」
 そうすると、トビは逃げものたうちまわりもせず、逆にゆっくりと産みたての大便へと近づいて、ついには登ってしまったのだ。ヒトムシの白い身体は、いくら小さくても茶色の島の上では見失いようがない。ちょこちょこと登って行くさまを、二匹はじっくりと観察することができた。トビが必死になって泳いだ大海原の距離も、子犬たちにとっては半歩分にすぎない短いものだった。

「これぐらいなら、私と一緒に暮らせるね、トビ兄さん」
 スナはトビらしき小さな点を見つめて、小さな牙を見せて笑った。全長千メートルほどの顔が、小さな島ほどもある瞳で自分を見つめていると知ったら、トビは発狂していただろう。とうのとっくに発狂しているようなものかも知れないが。

 *

「今、トビ兄どこにいるのかなあ。私のおなかのあたり?」
「スナのおっぱいのあたりを探検してるかもよ」
「ええ、恥ずかしいなあ」
 明かりの消えた事務所で、二匹のヒトイヌが冷たい床の上お互いを温めあっている。
「こないだスナの首筋をぺろぺろしたとき、たまたまいたヒトムシを舐めとって飲み込んじゃったんだけど、ひょっとしたら……」
「ええー! トビ兄を食べるのは私なのに」
「スナって、お兄さんのことを話すときは元気だよね。嫉妬しちゃう」
「えへへ……でも、こうやって抱っこしあってて、トビ兄潰れたりしないのかな」
「大丈夫。小さいからスナのお肉のへこみとか、毛皮が守ってくれるよ」

 あれから、大便の島の上で寝ていた芥子粒よりも小さいトビをスナは指で取り、自分の身体の上に落とした。トビの極小の身体では彼女の肉体から逃れることは出来ず、一生をクリーム色の体毛のジャングルの中で寄生虫として過ごすこととなるだろう。自分の踏みしめてる大地がスナの背中や腹、あるいは臀部だと気づかないまま。自分の見上げる空がスナの顔であり、サクラの脚でありテイマーの指であると知らないまま。よだれをつけた指にトビを付着させたため、彼の身体はさらに縮み○.一ミリメートルになったが、それにスナが気づくことはなかった。

「そっかぁ。トビ、今なにしてるかなあ。私の汗の雫を見つけて、これで数日はしのげるって喜んでたりして」
「お兄さん、ヒトムシの中でもかなり小さくなっちゃったからなあ。他の虫さんに食べられちゃってるかもしれない」
「せ、性的な意味で?」
「……そういえば、ノミってメスのほうが大きいとかご主人様が前に言ってたっけなあ」
「私の身体の上で、愛が育まれてるかも知れないって思うと興奮するなあ」
「いきものは宇宙って言うしね」
 すでにスナの身体にも何千匹も生息している大きさがまちまちなヒトムシだが、そのほとんどは十ミリから一ミリで、トビはサクラの言うとおりヒトムシの中でも極端に小さい。スナの汗や血を啜るどころか、汗や血の雫の中で暮らすことができるだろう。もっとも、そうすれば他の大きなヒトムシに雫ごと摂取されてしまうだろうが。トビにとっては、スナの身体は百メートルほどのヒトムシが闊歩している危険な世界というわけである。
 
「ああ、楽しそう。毎日、私の上で冒険してるんだろうな」
 スナはころころと笑った。明日のデートのことを考えるように楽しそうに。
「生きててね、トビ兄。いつかまた会えたとき、私が食べてあげるから。愛してあげるから。愛してるから!」

(了)
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