『ウェイストランドのお姫様』

 夏真っ盛りの七月某日、その学校の半径一キロメートルは一四〇分前、あらゆる生命が法の下に保証されない「ウェイストランド」に指定された。多恵の二次膨張が収まった現在では、多恵とシュウと、自力で移動できない(できなかった)わずかな人間を残し全員が避難を完了させていた。
 多恵の+型リ・アリス症候群の発現、一次膨張ではクラス四十名のうち一六人が死傷した。最初は風邪かと多恵本人は思っていた。彼女の身体が机からはみ出るとき、隣の席のシュウは反射的に彼女に抱きついていた。そのおかげで、彼女の太ももや臀部には押しつぶされずにすんだ。落下したコンクリート破片が頭に当たったりもしたが。リ・アリス症候群は潜伏期間中は医師の診断で判別することはできないのが特徴だった。

 二次膨張のさいは百人単位の死傷者が出た。一次膨張でおよそ八倍体となった多恵は、半壊した校舎から四つん這いで脱出して校庭へと逃れたのだが、その際膝の下で幾人かの生徒と教員を押しつぶしてしまった。二次膨張のさいに、近くで見ていたやじうまたちが予想以上のスピードで巨大化して迫ってくる多恵の下半身の下に押しつぶされた。恐怖で動けなくなっている生徒を多恵が指で触ろうとして打撲傷を負わせるケースもあった。そのほか、彼女の伸ばした腕や脚で校舎や塀、建造物が倒壊しそれに巻き込まれて数十人が死傷。

 ウェイストランドとは、原因不明の+型リ・アリス症候群(通称巨大化病)の全国的な流行に伴って設けられた法的措置である。巨大化した発症者は否応なくその巨体で周囲の建造物や住民に被害を与えてしまう。そこで、発症後半日、発祥地点から一キロメートルの範囲内では発症者のいかなる器物損壊や無意識か意図的かに関わらない殺害の法的責任を問わないという法が定められた。
 急ピッチで制定されたゆえ、ウェイストランド法は発症者の無意味な暴力行為(といえるほど穏やかなものではない)を助長するというデメリット、過去最大の百倍体を基準とした一キロメートルはそれ以上の発症者が出てしまったさいどうするのか、などという瑕疵がいくつもあった。
 ともあれ、確かなのが某私立中学校一年b組に在籍する稲月多恵は八十メートルの巨人となり、残り二十四時間は半径一キロメートルに限り絶対の暴君となれるということだった。

 多恵は二次膨張が収束してから二十分ものあいだ、四つん這いの体勢のままでいた。その巨体は中学校の敷地をはみ出し、腕は公道のアスファルトに突き立てられていた。平坦だったはずの車道は多恵の体重でじわじわとゆがみ、傾斜を作り出している。彼女の手の中で放棄された乗用車がひしゃげていた。高くそびえ立ったその形状はモノレールの駅を連想させるが、そのスケールは五倍以上違う。尻は天に向かって突き上げられている形となり、スカートの中身は後ろから見れば丸見えだ。形を保っている校舎はその尻の下にあった。校舎の幅以上の太さを持つ健康的な両足がそれを挟み込むように立っていた。脚を閉じれば、校舎は粉々に粉砕されてしまうだろう。スカートの水色の布が、垂れ幕のように校舎に覆い被さっていた。
 法制定後の発症者の行動は虐殺か不動かの二つに分かれるのだが、多恵は後者だった。緊張のあまり身体の動かし方を忘れてしまい、発症後数時間もの間動けないというケースはあるにはある。しかし今回の場合、それだけではなさそうだった。

「う、動かないでね……」
<ねえ……いつまでこうしてればいいの。つらいんだけど>
 恥ずかしさをこらえるようなささやき声、しかし拡声器を何重にも通したかのようなボリュームの声はシュウにははっきりと聞き取ることができた。
「……あと、三十分ぐらいかなあ」
 多恵の声に応える、大声だけども小さな声は彼女のブラウスの中から聞こえてきた。
 多恵の親友、シュウは五十倍サイズの衣服に閉じ込められてしまったのだ。二次膨張時、多恵のもっとも近くにいたシュウは、巨大化のショックで服の隙間へ転がり落ち、気がついたときには逆さとなったブラウスの地面に寝転がっていた。

 四つん這いになっている多恵の胸元は地上五十メートルの高さに位置する。一般人であるシュウが万が一にもボタンとボタンの隙間からこぼれ落ちてしまえば命はないだろう。
 シュウが多恵に指示したのは決して動くな、それだけだった。多恵は手のひらをリフトのようにしてシュウを救出しようと試みたが、片腕を動かしたことで多恵の身体のバランスが平衡を失い、シュウの身体はビー玉のようにころころと滑落しかけてしまった。巨人のわずかな動きが、とらわれたこびとにとっては生死を左右しかねないのだ。それを理解したので、多恵はシュウの指示に素直に従っている。その副作用で、奇跡的なまでに彼女の周囲には被害が少なかった。
 多恵には一つシュウに伝えていない大事なことがあったのだが、恥ずかしかったので秘密にしていた。こらえきれなくなる前にシュウは自分の身体から脱出してくれるだろう。そう期待していたのだ。

 シュウは薄暗いブラウスの内部を慎重に、下半身方面へと向かって匍匐前進していた。地表へは上半身へと向かった方が近いが、ソックスの皺などがある下半身の方が総合的に見て脱出しやすいと判断したのだ。多恵の体熱でじっとりと暑かったため、夏服を脱ぎ捨てて半裸になっていた。
<今、どこにいるの? なんだかくすぐったい>
「お腹の下あたりかな。もうしばらく歩けばおへその下だよ」
 彼女の身体の近い位置にいるせいか、声はちゃんと伝わっているらしい。もしそうでなかったら、今頃どうなっていただろう。自分がブラウスに閉じ込められていることに気づきすらしなかったかもしれないと思うと、シュウは背筋が寒くなる。
<ええ〜>
 不満そうな声が大音量で響く。なにしろ分速一メートル程度の速さでしか進めていないのだ。しかしそれは仕方のないことである。ブラウスの生地は平坦とは言いづらい上、巨大化した分繊維の隙間も大きくなっており、歩けば足を取られることがしばしばだったため、匍匐前進という移動手段を取らざるをえなかった。
 また、多恵がどれだけ動かないように注意を払っていてもどうしてもぷるぷると揺れてしまうので、そのたびに波が収まるまで停止することをシュウは強いられていた。数分前まではボタンが縫い付けられている硬い生地の上を歩いていたが、先ほど落ちかけてから硬い生地と柔らかい(といっても、シュウ程度の力では形を変えることもできないのだが)布部分の境目あたりをはって進むようにしていた。いざというときには生地部分にしがみつくのだ。

<それにしても、落ち着いてるよねシュウ>
 彼女が疑問を抱くほど、シュウは巨大化に巻き込まれてもうろたえずに的確な判断を下していた。普通の人間ではパニックに陥り数十分、ひどければ数時間まともに冷静な行動がとれなくなるものである。
「二回目だからね」
<……あ、ごめん>
 皮肉な顔で笑うシュウとは対称的に、多恵は気まずそうな顔になる。一年前『再発症』して以来、帰らぬものとなったシュウの妹の存在を、この学校ではわずかな人間だけが知っていた。

 進んでいるうち、シュウは地面もといブラウスの生地の色が違った部分にさしかかった。模様ではない。汗染みだった。炎天下のなか数十分もいれば汗だくになって当然だ。
 汗染みは迂回困難なほど大きかったので、かまわず直進することにした。シュウは日差しこそ避けられていたが、この空間は多恵の巨体の新陳代謝で熱されていて蒸し暑く、同じくぐっしょりと汗をかいていたので、彼女の汗臭さを不快に思うことはなかったが、こもった少女特有の臭気が炊きすぎた香水のように脳髄を痺れさせる。気を張っていなければ意識を失いそうだ。

「うわっ!」
 べたべたとした汗染みの中を進んでいるとばしゃりといきなり水をかけられた。つんとしたにおいに思わずシュウはむせてしまう。頭上を見てみると、肌色の天井にいくつも雫ができている。どちゃどちゃどちゃ。バケツ大の汗の塊が落ちてくる。全身がぬとぬとになってしまった。
 舐めてみると、多恵の味がした……かどうかはわからない。
<ね、ねえ……そこ、汗臭くない?>
 今ちょうど君の汗に襲われたところだよ、とは言えなかった。
 多恵の羞恥が強まったせいか、むわっとあたりの温度が上がった気がする。

 文字通り汗を浴びてしまったシュウは、汗の池の中に座り込み一時休憩する。ブラウスの中は不思議な空間だった。後方には肌色の天井から、白い小山二つが逆向きに生えている。それはブラジャーにに包まれた多恵の乳房だ。ブラウスの白い砂漠と、天に広がる肉体の丘陵。前衛芸術の世界に紛れ込んでしまったかのようだった。それはたった一人の少女で形成されていたのだけれど。
 多恵は申し訳なさそうにしていたが、ちょっと蒸し暑いことを除けば案外悪いところではなかった。多恵の身体と汗のにおいは無視できるものではなく、もちろん爽やかさとはほど遠いものだったが、なぜだかシュウにはそれが甘くすら感じられ、心地よいものだった。興奮状態にいることを、シュウはくらくらした思考のなか自覚していた。

 下半身に近づくへつれ、多恵の身体が起こす「微震」の頻度は多くなり、揺れも強くなっていった。肌に直接触れているわけではないため、くすぐったがっているわけではない。シュウはいぶかしみはしたが、多恵が特に何も言わないため捨て置くことにした。

 数十分後、ようやくウエスト部分にたどり着いた。ブラウスの地面を蹴り、スカートの端部分にジャンプでしがみつく。素肌とスカートのわずかな隙間から潜り込む。
<ひゃん!>
 あえぎ声とともに空間が大きく揺れ、危うく振り落とされそうになる。
 仕方なくやっているとは言え、変態じみた行為に思えてシュウは複雑な表情になった。仕方ない、仕方ないんだ――シュウはそう言い聞かせようとした。しかし、素肌を多恵のお腹にこすりつけながら進むのがなんだか気持ちいいのも事実だった。

 多恵の汗が潤滑剤になったのか、ウエスト部分は思ったよりも苦労せず通り抜けることができた。目の前には打って変わって灰色のスロープと、ももいろのショーツの天井が広がっている。空間を覆う布の明度が上がったせいか、ずいぶんと明るくなったように感じられる。
<ねえ……ちょっと、動いてもいい?>
「だめだって。もうちょっとだから我慢しなよ。恥ずかしいだろうけど」
<で、でもお>
 ますます頻度を増して多恵の巨体が小刻みに揺れている。シュウからは見えていなかったが、このとき太ももが校舎に接触し、屋上をわずかにけずりとっていた。下着を見られて恥ずかしいのだろうか? 今更な話だ。多恵が恥ずかしがろうがもだえようがシュウのすることは変わらない。スカートを伝って、校舎の屋上を目指す。それで終わりだ。
 ――だったのだが。

 そのときシュウは、スカートの中腹部分、ちょうど股間中心部分で二回目の休憩を行っていた。多恵の履いているアンダーは桃色のファンシーなショーツで、下端部分をV字の形のレースで覆われていた。その気になれば、ひらひらのレース部分を懸垂の要領で進むことも可能だったろう。ウエスト脱出直後はただの大きい布としか認識できなかったが、ある程度離れ股間全体を見渡せるこの位置からでは男性にはたまらない倒錯的な光景となる。
 早い休憩の理由は、シュウはシュウで辛抱ならないことがあったからである。先ほどのウエスト部分の通過で、押さえてきた劣情が燃え上がってしまった。多恵の汗がローションのように絡みついた中、スカートの幕を匍匐前進して肌が擦れるたび、敏感になった身体は自分の意思とは関係なく悦んでしまう。

 スカートで強烈なフェロモンが閉じ込められた多恵の股の真下という否が応でも性的な想像をしてしまうこの場所がそうさせていたのかもしれない。うつぶせの体勢でじっとしていても、時折多恵が悩ましげに身体を揺らすおかげで敏感な部分がこすれてしまい、つらい。そんな状況から、スカートエリアでの進行速度はブラウスエリアの半分以下となっていた。
(ごめん)
 そう心のなかで謝りながら、シュウは多恵の内側に自分自身をこすりつけ、一度果てる。シュウの残した痕跡など多恵にとってちいさな汗ジミ一つよりも小さいだろう、という打算もあった。

 シュウが一人遊びをすませたあと、それは起こった。
<も、もうダメえ……逃げてえ!>
 悲鳴のような叫び声にシュウが驚いていると、上空でなにか水音が聞こえてきた。見上げてみると、放水弁を開いたような音とともに下着のレース部分が急速に湿り始めた。汗か? いや違う。
 ――さっきから多恵がもじもじしていたのは。
 ほどなくして、硬直しているシュウの周囲にショーツの繊維を透過した幾筋もの湯に近い水温の液体がどぼどぼとシャワーのように降り注ぎ出した。たちまちシュウの鼻孔は独特なアンモニア臭に犯され、液体のほとばしる熱気でただでさえ蒸し暑かったスカート内の空間がサウナ同然となり、意識を朦朧とさせる。
 ――間違いない。多恵の、おしっこだ。
 また、それと同時に激しい揺れとともにスカートの地面が傾きだし、急勾配の坂と形容して差し支えないものになる。押し流されればどれだけの高さから落ちることになるのかわからないと危惧したシュウは必死でスカートの山折りのひだを掴む。落ちてくる黄金色の液体――尿に全身が浸され、生暖かくなる。
 耐え忍べども水流の勢いは収まらず、それどころか勢いを増し今や滝のような太さと勢いで襲ってくる。空間はさらに揺れ傾き、立ち込める湯気もあいまって自分がどちらを向いているのかもわからない。やがて、傾斜の上方から溜まった小水が鉄砲水のようにシュウへ襲いかかり、あっけなく押し流してしまった。
 
 シュウは目覚めると、慣れ親しんだ校庭の茶色の土の地面に横たわっていることに気づいた。ただ、妙に薄暗い。あと、口の中が不快なしょっぱさで満たされているし、全身は濡れ鼠になっているうえとても臭い。
 しかめ面で正面方向に視線をやると、そこにはコンクリートの瓦礫の山と化したかつての校舎の成れの果てがあった。もし誰かが校舎に残っていたとしたら生還は絶望的だろう。これだけの破壊を、たった一人の少女が引き起こしたのか。
 立ち上がり、振り返ると奇妙なオブジェが鎮座していた。真正面の、後ろにピンクのレース生地が見える紺色のカーテンのようなものから、両側面へと手足をもがれたタンクローリーのような肌色の丸みを帯びた有機的な柱が二つ横たわるように生えていた。時間帯の割に薄暗いのはこれらの影に包まれてしまっているからだろう。
 カーテンへ近づいてみると、肌色の柱の根本は力強く盛り上がりカーテンを内側から膨らませていた。

 肌色の柱は、継ぎ目や傷跡などはまったくない美しいものだった。高さは二階建てアパートぐらいはあるだろう。触ってみるとすべすべしていて気持ちがいいが、肉感的で弾力のありそうな見た目とは裏腹に強く押しても凹みもしない。中身もみっちりと詰まっているのだろう。もしこの鋼のように強靭な柱に挟まれたとしたら、まったく抵抗できずに押しつぶされ、すりぶつされてしまうだろう。
 でも、なんだか甘い心地いいにおいがする。
<ちょっと、何遊んでるの>
 全身を震わせる音量の声が降りかかる。ドン! 轟音と共に土埃をあげながら数メートルほど横に巨大な何かが降ってきた。それに吹き飛ばされるようにして転がりながら上を見上げる。汗で透けたブラウス。ほどほどに膨らんだ胸。何もかもが巨大な。まるでそれは塔だった。
「……やっぱり、多恵なのか?」
<? 見て分からないの?>

 ――肉の柱が露出したふともも、幕がスカートでさっき落ちてきたのが手だというのは薄々わかってはいたものの、正直なところ自信がなかった。すべてが五十倍の世界では、見慣れたはずのものも部分部分の近似点を見つけて照らし合わせないと判別がつかめない。普通の人間はビルの玄関と側面と屋上を同時には見られないように。座っていても高層ビルのような高さの女子中学生なんて、まずお目にかかる機会はないのだ。
<言っておくけど、そこに置いてるのは変な理由じゃないからね。うっかりつまんだりすると怖いし、あんまり校庭からはみ出たくないし、でも目を離すわけにはいかないし>
 四十メートルの遠くから聞いてもいない言い訳が聞こえてくる。つまんだりすると怖い、というのは力の加減が効きにくく、最悪潰しかねない危険があるということだ。興奮した発症者の指や爪で身体を潰されたり切断された例は枚挙に暇がない。
 シュウは現時点でも、自分を股の間に置いて女の子座りしている巨人が多恵であると一〇〇パーセントの確信が持てなかった。何しろ多恵の巨体はただでさえ逆光になっている上、あまりに高い位置彼女の顔はわかりづらいのだ。

<ねえ、聞いてるの?>
 山のような巨体がこちらに傾くのを見てシュウは反射的に頭を腕でかばった――もちろん本当に倒れてくるとしても無意味な行為だが。多恵が顔をすぐ近く、頭上五メートルほどにまで近づけたのだ。多恵の長い髪が垂れ、オーロラのようにシュウの周りを覆う。シュウと多恵の顔だけの空間ができた。
「よかった、多恵だ」
 ……ともあれ、多恵の顔を判別できたシュウはようやく人間と話しているという実感を得ることができた。
<当たり前じゃない>
 彼女の大きな口が開き、生暖かい吐息が浴びせられているとまるで食べられそうで、怖くなったシュウは身を縮めてしまったけれど。
「それにしてもひどいことするよね」
<な、なにがよ>
「トイレ我慢してたの?」
 多恵の唇が閉じられ、むにむにと複雑にうごめく。
「多恵の、たっぷり飲んじゃったんだけど」
<そ、それはその>
「お・し・っ・こ」
<――っ>
「ひょっとして、ぼくに飲ませようとしてたの?」
<そんなわけ>
「はは、ごめんごめん」
<あとで泣かす……絶対泣かす>
 あまりいじめ過ぎるとあとが怖い。殺されることはないにしろ、死にたくなるような目に合わされるかもしれない。多恵が安易にシュウに触れることができないのが、シュウにとっては逆に安心材料になっていた。

<あのさ、言いにくいんだけど>
「なに?」
<おまたがすごく気持ち悪いから……パンツ、脱いでいい?>
「……ここで?」

 シュウの両側面に、黒い塊が一つずつ並んでいる。黒い塊からは紺色の布にぴっちりと収まった肌色の柱が――要するに、多恵がシュウを跨いで立っていた。多恵の立ち上がる様子は、まるで城が育つかのような圧巻の光景だった。黒い塊は近づいてみるとよく磨かれているようで少し興奮気味のシュウの表情が映った。革製品としては巨大な割に極端に縫い目、継ぎ目が少ないことが見ていて違和感を与える。もちろん巨人の視点からはただのローファーとしか映らないのだが。
<靴脱ぐよ、離れて>
 宣言に、あわててとことこと反対側のローファーへと逃げ、ぴったりと寄り添った。こうしていれば間違っても靴になぎ倒されることはないだろう。
<……シュウ、靴の高さに届かないんだ>
 正確にはその逆であるが。たしかに、シュウはローファーの影に完全に隠れられていた。恐ろしくなって、少しだけ靴と距離を取る。こっちの脚がズレればひき肉にされる危険があるのだ。

 何人も手をつないで囲めそうな太さの右脚が上方向にずれ、土の地面を削りながら横方向に回転を始めた。巻き込まれれば命はないだろう。少しして、轟音とともにローファーが前方に脱ぎ捨てられた。同じように、左の靴も脱ぐ。そして、それを丁寧にそろえる。おそらく普段家でもそうしているのだろう。揃えられた一対のローファーはトレーラーが二台並んでいるような迫力があった。
<入ってみる?>
 じっと靴を凝視していたシュウに、冗談めかして多恵は笑って言った。
「……」
 シュウはゴクリと唾を飲んだ。入りたいわけはない。もし入ってしまえば、自力では出ることすらかなわないだろう。そのまま履かれたら潰されてしまう。つま先のスペースに余裕があったとしても、そこは窮屈で、臭くて。
「いやいいよ、臭そうだし」
<靴、好きかと思った>
「べつに」
 軽口を叩きながら見上げる。巨大な両足を吸い込む乾ききらない尿が滲んだショーツと、それをくるむシャンプーハットのようなプリーツスカートのひだひだしか見えない。エロティックな眺めだが、喋ってる人間の顔が見えないとどうにも不安になる。

<次、パンツ脱ぐよ。……脱ぐよ>
 多恵が脚をよじり、レースの天蓋がぎちぎちと音を立てて歪む。絞られたショーツから残っていた尿が大量に(多恵にとっては雫のようなささやかな量ではあったが)落ちてくるのをとっさにシュウは避ける。
<というか、どこか遠く行ってよ>
「ぼくにプールみたいな量のおしっこかけたのは誰だったっけ」
<……>
 多恵は唇を尖らせた。
<でも、ちまちまとあっちいったりこっち行ったりで、なんかかわいいね>
「あくせく言って走りまわってるんだけどね」
 学校の敷地の外で脱げば、多恵の意思に関わらず新たな被害を産み出してしまうだろう。それは彼女の望むところではなかった。五十倍の巨人になっても、そのあたりの良識を彼女は保っていた。多恵とは反対に、日常で抑圧された人間が発症した場合、とてつもなく反社会的な行動を取る場合が少なくない。ただそこに存在するだけで破壊をもたらす巨大な発症者が、積極的に破壊活動を行えば都市を一つ壊滅させることも可能だ。

 多恵は恥ずかしそうに身体を揺らしながら――シュウはそれにいちいち恐怖していた――スカートをまくりあげ、ショーツのゴムに指をかける。
 足の真ん中にいれば落ちてくるショーツに押しつぶされてしまうので、寄らば大樹の陰とでも言うのかシュウは右足首にぴったりとくっついた。自分のちょうど頭の上の高さあたりにくるぶしが突き出ている。靴下と肌の境目部分ははるか高みにある。この片足部分だけでひとつの建物のようだ。
 ローファーを脱いだ多恵の足の周囲は、こんもりとした熱気と少女の脚独特の臭気に包まれていた。汗をかいていたためけして弱いものではなかったが、居心地の悪いものでもなかった。
 そうしているうちに、べしゃりと音を立て、土煙を巻き上げながらべしょべしょに濡れたショーツが脚の間に落ちてきた。再び、薄れかけていたアンモニア臭がシュウの鼻を刺す。狙い通りにシュウの身体は脚の穴をくぐっていたが、もしさっきの場所にいたら水を吸ったテント大のショーツの重さで骨の一本ぐらいは折れていたかもしれない。

 多恵はショーツをローファーの横に丸めて置くと、ふたたびわざわざシュウの真上に脚を開いて立った。みずみずしい臀部が露呈される。股間の大事な場所は手で抑えられたスカートが守っていた。
<ねえ>
 スカートの向こうに多恵の顔が覗いた。彼女が前にかがんで足元のシュウに顔を近づけたのだ。
<実は、さっき――途中で止めちゃってて。今、すごくしたくてしょうがないの>
「校舎の横のプールは無事だよ。多恵がする量が、収まりきるかどうか分からないけどね」
 多恵の巨体をネタに弄りながらも、なんとなくただならない気配をシュウは感じていた。
<そうじゃないの>
 多恵の身体が迫り、空気の移動で砂埃が舞い上がった。彼女が膝を折ったのだ。多恵の作る影が濃くなり、彼女の顔が見えなくなる。
<シュウに、かけたいの>
 ――え?
 そんな間抜けな声が出た。
 スカートを抑えていた手を離す。股間に密着したスカートははらりと外れ、それが露になる。
 空気が濃密になっていた。シュウの体温も上がっていた。汗もかいていた。それは蒸し暑さのせいだけではない。

 シュウの頭上十メートルほどの位置に、多恵の巨大な秘貝がそびえていた。呆然としているシュウの頭にぱしゃりと温かい何かがかかる。尿ではなかったが、粘り気があり、くらくらするような匂いだった。
 口からなかば悲鳴を漏らしながら、シュウが後退るが逃げ道は崩壊した校舎に塞がれている。
 多恵の顔が再び見える角度にあった。彼女も緊張しているのか、唇が真一文字に結ばれている。
<うん、そこにいると……かけやすいかな>
 女性器の上部、尿道口がひくひくと狙いを定めるかのようにうごめいていた。
<男子が言ってるのを聞いたんだけど、便器にさ……汚れとかがあるとそれを狙ってかけたくなっちゃうんだって。私は多分……それのすごい版なんだと思う>
 ドン! 巨大な杭が打ち込まれるような振動と音とともに多恵が両手を地面に付き、シュウの上で膝立ちになる。完全にシュウの周りはスカートの天幕に囲われる。スカート越しの日光が照らす中、視界に映るのはモノリスの如き威容を誇るふともも二柱と、その狭間の秘部だけだ。
 大型の換気扇を回しているような風音がする。多恵が荒く口で息をついているのだろう。
<シュウは、汚れでも虫でもないってのはもちろんわかってる……けど、我慢できないの。かけたいの>
 スカートに空気が閉じ込められ、逃げ場のなくなった多恵の淫蕩な香りが充満する。それだけでシュウは気がおかしくなりそうになっていた。
<人間が虫みたいな大きさなの。かんたんに潰せちゃうのに、潰しちゃいけないの。でも、潰してもいいの>
 多恵は見えない友人へ向けてとつとつと語り始める。なかなか出さないのは、緊張故かためらい故かはわからない。

<シュウは大切な友達で、こんなことしちゃいけなくて、でも>
 声がうわずっている。泣いているのかもしれないが、シュウにはそれはわからない。スカートの中の視点では、まるで収縮する女性器と会話しているかのようだった。しゃがんでいた時よりもさらに肉迫している多恵の肉壺は、シュウを簡単に飲み込めそうな大きさだ。まるで肉のベッドだった。
(死ぬかもしれないなあ)
 おしっこを小虫にかける、多恵にとってはたったそれだけのことだが彼女の五十分の一の大きさしかないシュウにとっては恐ろしいできごとだ。
 多恵がどれだけ我慢しているのかにもよるが、消防車の放水よりも強力な水圧を浴びれば、首がちぎれ飛ぶか身体に穴が開くかしてもおかしくはない。多恵はばかだからわかっていないかもしれないな、とも思った。
 そこまでわかっていて、シュウは逃げようとはしなかった。むしろ、それを浴びやすい位置に自ら進んで移動していた。
 多恵の気持ちには答えてあげたかった。+型リ・アリス症候群は三次膨張が訪れるより早く中和剤を投与し、以後も定期的に服用していけばもとの人間としての大きさで生活できる。破壊の罪も問われない。だが、ほんとうの意味での元には戻れやしないのだ。発症者には暗澹とした未来しか待っていない。だから、できるだけ発症者の望みは聞こうと、一年前から誓っていた。
 ――本当は、もっとひどいことをしたいはず。

 幼い妹の舌先に乗せられたときのことを思い出す。あのときのシュウの妹は今の多恵よりももっと大きく、圧倒的だった。ピンク色のかわいらしい、しかしその厚みだけで人間の身長ほどもある怪物のような舌が、シュウの全体重を支えていた。熱いビロードのスロープの向こうには少女のつくりだす深淵が覗いていて、絶え間なく生臭い風が吹いていた。恐怖に下腹部を生暖かく濡らしていたのを、彼女は楽しんでいた気がする。彼女は大きすぎて、シュウは小さすぎて、暴力と恐怖のみでしか語れなかった。
 シュウは、自分は罪を償おうとしているのかもしれないと思った。あの日できなかったことを、しようと。彼女たちは大きさ故に小さく、強き故に弱い。
 ――そして、この状況に興奮しているというのもまた、否定出来ない事実だったが。巨大な人間に、神性のようなものを感じているのかもしれない。彼女たちのものを受け入れることで、なにか人間ではないものになれる、という妄想。
 多恵の全身が、ぶるぶると震え始めた。シュウにとっては世界全体が揺れているようにすら感じられる。カタストロフの前兆だった。
<――出すよ>

 *

「あの学校があった土地、瓦礫もそうだけどしばらくは使えないみたいだよ。おしっこの匂いが残ってて」
「うわあ、恥ずかしい死にたい」
 シュウと、元の大きさに戻った多恵の二人は、多恵の自室で談笑していた。
 多恵の尿は勢いが足りず、股間斜め下のシュウにひっかかることはなかった。量は十分なものだったため、溜まったそれに押し流されて比喩なしで泳ぐことになった。半裸になっていてよかったと思った。
 しかし跳ね返った飛沫だけで軽度の打撲を受けてしまったのだから、直接受けていればどういう事態になったか想像するだに恐ろしい。
「そろそろ薬の時間じゃないの」
「あ、そうだった。あぶないあぶない」
 机に向かって座っている多恵はポーチから支給された中和剤を取り出し、口に放りこみペットボトルの水で飲み込む。対症療法的な+型リ・アリス症候群の薬だ。一日三回欠かすこと無く飲まなければ再び巨大化してしまうことは、一般世間には知らされていない。巨大化するリスクのある人間が市井に紛れていると知れればどういう事態が引き起こされるか、想像に難くない。

「それでね、この中和剤なんだけど噂があって」
 多恵は立ち上がり、ベッドに座るシュウの隣に腰掛ける。手には中和剤を持ったままだ。
「巨大化する+型症候群に対して身体が縮んじゃう−型のほうを擬似的に発症させてサイズを打ち消してるって仕組みなんだけど、普通の人が飲んだら−型が発症して小さくなっちゃうんだって」
 引きつった笑いを浮かべて、多恵から離れようとするシュウの腰をがっしりと多恵はつかんだ。
「試してみない? うち、今日親いないの。二人でゆっくり遊べるよ」
 多恵は蠱惑的な笑みを作った。
「あの日の続きがしたいの」

「お姫様にはかなわないね」

(了)
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