戻る 前へ 12.ハンド・トゥ・ハンド それから、すばるの家にくるみの両親が押しかけてきた。姉妹の姿はなかった。 すばるはくるみを一週間にわたり自室に閉じ込め、性的な暴行を繰り返し、不審に思って近づいてきたくるみの妹をも丸一日以上監禁し、同様に暴行を働いたことを告白した。 激しくテーブルを叩かれ、胸ぐらをつかまれ、もう少しで握り拳で殴られるところだった。くるみの父は女子供だからといって容赦しなかった。自分の愛娘二人が拉致監禁した犯人に対しては当然の怒りと言える。 途中、どうやって二人を監禁しつづけているのかを聞かれた。妹は中学生に上がりたてだし、くるみも運動が達者な方ではないが、少女ひとりで閉じ込め続けるのは骨が折れるはずだ、ということだ。なんとかのらりくらりと誤魔化そうとしたが、くるみ父の追求は止まらない。 「小さくしたんですよ」 仕方なく、すばるは顔を伏せたままあらましを正直に語ることにした。 「この妙なデザインの腕時計が、ハンドトゥハンドっていう人や物を縮める事ができる魔法のアイテムなんです。ニニアンは『グッズ』って呼んでたかな」 「あ、ニニアンっていうのはこれをくれた人です。羽の生えた小さな女の子で、自分のことを女神って言ってました」 「小さくなったくるみ先輩はとても可愛らしかったです。いえ、もともとかわいいんですけどね。小動物属性が付加された、って感じで。あ、なんだかテンション上がっちゃいました。すみません」 顔を上げると、哀れみに似た視線が千賀夫妻から自分へと注がれていた。 その日、結局それ以上追求されることはなかった。警察沙汰にもならないらしい。それと、神経クリニックを紹介してもらった。別に狂ってなんていない。ただ正直に話しただけでこの扱いはどうかと思うが、相手をするのも面倒だったので助かったというのが率直な感想だ。あれ以上食いつかれていたらうっとうしさのあまりハンドトゥハンドを使用していたかもしれない、と思ってすらいた。 別にくるみの両親などどうでもいい。家族に気に入られたいと思っていなかった。くるみさえいればそれでよかったのだから。 二人が去ったあと、すばるはお湯を沸かし毒薬のように苦いコーヒーをふたたび入れた。火傷しそうな熱さを一気に飲み干すと、突き刺すような痛みが全身に広がっていく。冷え切った身体に熱が戻るが、それも一瞬のこと。力なく全身を肘掛け付きの椅子に投げ出す。 部屋を掃除したら、くるみのいた痕跡は完全に消え去ってしまった。それだけ彼女はちっぽけだった。 千賀夫妻の思うとおり、自分は狂人なのだろう。人間を小さくして飼っていたなんて、常軌を逸している。それがすばるの妄想だったとしても、現実だったとしても。 右手首には、未だにハンドトゥハンドが絡み付いていた。すばるは口元を歪める。 「何が……」 立ち上がり、右腕を振りかぶる。 「欲しい物を手に入れられる腕時計だ!」 バアン。思い切り壁に腕時計を叩きつける。腕がひりひりする。が、ハンドトゥハンドには傷ひとつない。 「バカに……して……! 出てきなさい、ニニアン!」 暗転。 突如としてすばるの周りにだけ夜が訪れる。天井も壁も床もなく、すべては無の闇だった。 「呼びましたぁ〜?」 女神を自称する羽虫のような少女ニニアンがちらちらと燐光をまき散らしながらすばるの鼻先を舞っている。 「願いを投げ出そうとしている敗北主義者がこの上私に何の御用ですかねぇ」 偽りの願望を引き出し、正当な理由を作り出して弱者を取引の場へと引きずりだして魂を奪う悪魔はねっとりとした口調で喋る。 「これを返すのよ」 すばるはハンドトゥハンドを手首から外そうとする……が、外そうとすると留め金が勝手に動き、ベルト部分を突き破り手首の皮膚に突き刺さった。 「っ痛!」 食い込んだ、などという生やさしいものではない。手首から血液が筋となって足元の闇へと滴り落ちる。 「な、なにこれ」 すばるは焦ってハンドトゥハンドを剥がそうとするが、余計食い込んで痛くなるだけだ。 「どういうつもり、ニニアン!」 「さぁ〜てねえ。七日間もじっくり使ったおかげで、そいつが持ち主だと認めちゃったんじゃないですか? くくっ」 いつのまにかすばると同じぐらいの身長になっていたニニアンは、せせら笑いながら背後に回ってすばるの首に腕を巻きつけた。背中に乳房が当たる。 「ふざけてないで、外してよこれ! もうこんなもの私にはいらないから」 「まだあなたには必要ってことですよぉ、そのおもちゃが」 ニニアンの全身が痒くなるような間延びした声が、拡声器を通したように響く。目の前には巨大なニニアンの顔が広がっていた。すばるは彼女の手のひらの上に乗せられていた。 「だって、先輩はもう元の大きさに戻してしまった。あなたの言うとおりならもうこんなもの役に立たないよ」 ニニアンは、傾けた顔をずいと手のひらの上のすばるへ近づける。 「虫が、喚くなよ」 「……なんで、すって」 「自分では望むものを手に入れられず、助力を得ても叶わず、なにもできない愚かな存在のことを、人間はそう呼ぶのではないですか?」 傲慢な笑いを浮かべ、ニニアンはすばるを弱く握り締める。ニニアンにとっては弱くでも、すばるにとっては骨がきしむほどだ。こんな持ち方、すばるもくるみに対しては数えるほどしかしていない。 「虫、虫、虫、虫、虫! 虫! 虫! 虫! 虫! 虫! 虫!」 聞き覚えのある罵声が、滝のように手のひらのすばるに降り注ぎ、同じように彼女はうずくまる。 「そんなこと言ったって」 もう何かをする勇気なんてない。七日前のあの日最大限の度胸を使い果たして、それからはきっと誰か別の人間が自分を操縦していたのだ。そうでなければ、自分の魂をハンドトゥハンドとくるみに吸収されたのだろう。自分の唾液や排泄物を、くるみになすりつけたあの時に。 「なんで、手放しちゃったんだろ」 「いっそ本当に食べてしまえばよかったのに」 ニニアンがくつくつと笑い、歯を覗かせる。血の臭いが漂った。きっと人を喰っているのだろう。 「愛とは自分のためのものなのに。傷つけ奪うことこそが本質なのに。何を気遣う必要があるのです?」 確かにそうかも知れない。愛してくれないとわかったから、奪うと決めたのではなかったのか。遠くに行ってしまうとわかったから、手元に置こうと思ったのではなかったか。なぜ初志を貫徹できなかったのだろうか。 「もうその腕時計はあなたのものです。支払いは終わりました。あとは好きになさい」 ふっとニニアンの巨体は消え、闇はなくなりマンションの一室へとすばるは戻っていた。ぼんやりと天井を仰ぎ見る。じっとりとした汗が、ブラウスを肌に張り付かせていた。 「だって、もし先輩を食べちゃったら……先輩が、私のことを食べてくれなくなっちゃうじゃない」 ハンドトゥハンドがそんな使い方をできたかは知らないが、自分を小さくしてくるみに飼ってもらえばよかったのかもしれないと思う。しかし、それはそれでくるみに文字通りゴミのように捨てられるのが怖かった。愛されないと、はっきりとした形で知ってしまうのが怖かった。それは、自分を思いを告げる以上に。 (――ああ、そうか) 自分は、くるみのことを本当は愛してなかったのだ。愛していないから、信じられない。自分を捨てられない。信じられないから、くるみの意思を奪った。最後には命すら奪おうとした。 (最低だ) シンプルな結論が出る。 (ああ、なんか、どうでもいいや) 元からくるみ以外のことはどうでもよかった。くるみすらいなくなったこの世界に執着する意味などあるのだろうか。 * 「父さんと母さん、先に行ってるって」 すばるから解放されてから三日が経ち、くるみとその妹は、青空の下仲良く歩んでいた。このまま真っすぐ行けば住宅街を抜け、駅へと辿りつけるだろう。そうすれば、この街ともおさらばだ。すばるのいるこの街から。 「どうしたのお姉ちゃん、うかない顔して」 「ん……いや、太陽がまぶしくて」 「大丈夫? さっきから電柱や塀にぶつかったりしてるけど」 「……ん、大丈夫」 ずっと室内で過ごしていたくるみにとって日の光は久しぶり過ぎた。また、長い間虫のような大きさで生活したため、いまいち物体との距離感が把握できない。元の感覚を取り戻すのはしばらくリハビリが必要そうだとくるみは思っていた。 「ちゃんと寝れてるの?」 「……ん」 くるみは目をこすり、返事になっていない返事を返す。三日前から、なぜかほとんど寝付けていない。 「ひょっとして未練でもあるの? あの女に」 「そんなことは……」 否定をするが、くるみの目は泳いでいる。 未練がないといえば嘘になる。まともに別れの言葉も口にしていなかった。 正しい理性は、これ以上彼女と一秒たりとも一緒にいるべきではないと告げていた。お互いの思いがどうであれ、二人を傷つけてしまうのは明白だ。一刻も早くすばるの前から姿を消し、遠いところへと向かうのが彼女のためだと信じていた。 「やめなよ、あんなサイコパス。お姉ちゃんはなんとか症候群にかかってるんだよ。錯覚なんだよ、それは」 「――なんて、みんな錯覚だ」 「え?」 「いや、なんでもないよ」 ませた妹は不審の視線を向け、くるみの手を強く握る。 「どこにも行かないでよ、お姉ちゃん」 「わかってる」 手のひらの中が汗で湿る。 「お姉ちゃんは私のものなんだからね」 「わかってる」 閑静な住宅街を抜け、駅前のロータリーが見えてきた。平日昼間の交差点は車も人も多い。横断歩道の前で信号が変わるのを待つ人ごみへ二人は混ざる。排気ガスの臭いが鼻をついた。 暫く待つと信号は青になり、人の群れが動き始める。妹もそれに続こうとして、手をつないでいるすばるが動こうとしていないことに気づく 「お姉ちゃん?」 振り返ると、くるみの顔からは血が引いていた。 そんな二人をよそに、人々は向かい側へと歩いていく。向かい側からこちらへと歩いてくる人と混じっていく。 「あ、ああ」 くるみは震えた声をあげ、その場に座り込んでしまった。往来の真ん中で座り込んだ彼女は思い切り通行の邪魔になり、衆目を集めてしまう。それがさらにくるみの異状を悪化させ、とうとう全身を震わせ始めるほどになった。 「お姉ちゃん? 立ってよ、お姉ちゃん!」 「ふ……」 「ふ?」 「……ふ、踏み潰さないでください、おね、がい」 やっと紡ぎ出した言葉はそれだった。 「お姉ちゃん!」 妹の言葉も悲鳴に近いものになっていた。 「うわ、ああああああっ!」 くるみは妹の手を払いのけて立ち上がり、人ごみをかき分けながら転がるようにその場から逃げ出した。遠くから妹の自分を呼ぶ声がしていたが、そのうち聞こえなくなった。 「きゃっ!」 「うわっ」 ろくに前も見ずに疾走していたため、人とぶつかってしまった。ワンピースを着た二十代の女性だった。くるみはバランスを崩しつんのめって転んでしまったが、女性の方は少しよろめいただけで済んだ。 「だ、大丈夫ですか?」 女性が心配そうに手を差し伸べる。 「す、すみませ……」 謝ってその手を取ろうとする、が。 「ひっ……」 彼女『も』――大きい。まるで、自分を踏みつぶせそうなぐらいに。 「ひ、ひいいいいいいいっ!」 「ちょ、ちょっと!」 戸惑う女性を無視してくるみは再び全力疾走でその場から走り去る。何度か転び、顔にみっともない擦り傷を作るが、そんなものにかまってはいられなかった。自分はすばる以外の大きな女性を知らないのだ。もしそんな巨人に捕まってしまったら、何をされるかわかってものじゃない。 一心不乱に走った。高まる動悸とは裏腹に、冷静になっていく思考が自分の狂態の原因を突き止めていた。 ――この『発作』は初めてじゃない。自宅に戻ってから、たまに父や母、そして妹が巨大に見えることがあった。三日間ずっと家に引き篭っていたので気がつかなかったが、ひとたび外出するとこうなってしまうとは。 おそらくは、長い小人生活が自分の感覚を完全に狂わせてしまったのだ。何かをスイッチとして、自分以外のすべての人間が巨大に見えてしまうのだ。 多分自分は一生このままなんだろう、そんな根拠のない確信があった。精神科も無駄だろう。とても常人が経験できないような事柄が原因なのだから。この傷を抱えて生きるしかない。極力外には出ず、見知らぬ他人を避けて……そんなことができるのか? (無理、だ) どこをどう走ったか覚えていない。しかし、足を止めたその場所は、くるみのよく知っている建物――すばるの住むマンションだった。 * マンションに入るための暗証番号は前にすばるに教えてもらっていた。彼女曰く、いちいち呼び出されるのが面倒くさい、とのことだ。エレベーターに乗り、五階のボタンを押す。再会が近づきつつあった。 今顔を合わせて、どうしようというのだろう。しかし自分の傷をどうにかできるのは、彼女以外には思いつかない。でも、結局お互いを傷つけて終わるだけで……などと葛藤している間にも、エレベーターはすばるの住む階へとたどり着いていた。 エレベーターから降り、迷いなく奥羽のネームプレートがある部屋の前へとたどり着き、チャイムを鳴らす。三度ほど押したが、返答はない。いないのかと思いドアノブを捻ってみたら開いた。鍵はかかっていなかった。 「……失礼します」 もちろんその言葉にも返事はない。生気の感じられない廊下を恐る恐る進み、居間を通りぬけすばるの寝室へと入るが、誰もいない。首をかしげつつ居間へと戻ると、浴室から流水の音が聞こえた。 (シャワーを浴びてるのかな?) 脱衣所へ向かう。ざあざあとタイルを叩くシャワーの音がしていた。半透明の引き戸の向こうには人影が見える。 しかし、何かおかしい。シャワーの音がずっと途切れず、また人影も動かない。 (まさか) 「後輩! 聞こえたら返事をしろ! 私だ!」 「……」 反応は、ない。 「開けるぞ、後輩!」 勢い良く引き戸を開けると、そこにはすばるがぐったりと座り込んでいた。ハンドトゥハンドをつけたままの右手にはカッターナイフが握られていて、左手首からは大量の血が流れ、排水口へと吸い込まれていた。 「後輩ーッ!」 くるみは叫び声を上げた。 * 「ハンドトゥハンドを彼女が持っていても、結局くるみを再縮小できないのだから意味はないんじゃないか?」 「その制限が意味をなすのは人間だけですよ」 「……」 「渋い顔をしていますね? プレイヤーといて充実とした日々を送っているくせに」 「この生き方がゆがんでいるのは知っているつもりだからね」 「ごたくはやめなさい! 幸せなんて人それぞれ、そうでしょう」 「陳腐な言葉を」 「善人気取りも反吐が出ますがね、ま、せいぜい楽しみましょうや。何もしないにはこの世は遅すぎる」 * 「なんてバカなことを」 すばるの左手首に包帯をぐるぐると巻いて、くるみは大きくため息をついた。発見したときにはおびただしい量の血を流していた割には『幸運にも』、命に別状はなかった。 「だって……」 「だってもなにもない! 自分の身体は大切にしろ」 「……先輩だって、私に食べられたがっていたくせに」 くるみの顔が羞恥に赤く染まる。『くーちゃん』でいたときの記憶は都合よくなくなったりはせず、霞がかってはいてもちゃんとあった。 「それは、その……」 「ねえ、先輩。今度は私からお願い。私を食べてよ。殺してよ。私、先輩になら何されたっていい」 自室のベッドに腰掛けて上目遣いに懇願してくるすばるから、くるみは目を逸らす。 「罪滅ぼしのつもりか」 詰まりそうな呼吸の中、搾り出した声は自分でも驚くほどに冷ややかだ。 「私はお前の命なんて奪いたくない。それに私の受けた傷は……そんなものじゃ癒されやしない」 「それならなんで来たんですか。私を笑いに?」 「……」 思いのほか弱っているすばるの姿に、くるみは困惑して二の句が継げない。困ったように手を開いたり握ったりしている。 「愛しても罰してもくれないなら帰ってくださいよ。先輩は昔っからそうだ。期待させるような素振りをしておいて私を失望させる……この悪女!」 悪女なんて言葉、ドラマでしか聞いたことがない。 「悪い……まさか、そこまで後輩が私のことを、その、そう思っていたなんて知らなかったんだ」 「謝らないでよ」 くるみの声は悲痛だ。 「あのとき、改札口で、あんなこと言わなければ、私だってあきらめられたのに。ずっと、ずっと、私の心を弄んで!」 「そんなつもりはない!」 「嘘!」 「なんでわからないんだ」 くるみは、すばるの顎を両手で持ち、強引に顔を自分の方へ向ける。きょとんとした顔のくるみの唇に、自分の唇を合わせる。 「っ……!」 熱いベーゼは数秒続いた。すばるの口腔にくるみの舌が侵入し、歯茎や舌端を犯した。口中の敏感な部分をくるみの舌先が撫で回すたび、すばるの身体が快楽に震える。 水音を立てて、二人の唇が離れた。 「何、を……」 すばるは抗議しようとするが、くるみが彼女を抱きしめたことによって阻まれる。お互いの心臓の鼓動が伝わる。ふたりとも、世界が終わりそうなくらいの早さで心臓を打ち鳴らしていた。くるみの荒い吐息が、すばるの耳にかかる。 「好きだ、すばる。愛してる」 『私も、好きだよ。すばる』 「えっ」 それはすばるが本当に願っていたはずの回答だった。でも、その時の彼女はその言葉を受け入れることができなかった。確かにその時、駅の構内を行き交う人々の群れの動きは凍っていたと思う。動けたのは、くるみとすばるだけだった。 「……忘れて」 泣き笑いのような顔を一瞬作って、くるみは背を向けた。灰色の人々をかき分けて、ホームへと向かおうとする。 「待って」 右手首に鋭い痛みが走る。こんなもの、最初から使うつもりはなかった。呆れられるか、軽く流されるかして、それで恋は終わりを告げるはずだった。なぜ? どうして? 人々が呪縛から解き放たれ、時の運行は戻り始める。 待って。 ねえ神様。 少しだけ猶予を。 私に。 ください。 * そして今、猶予期間は終わったというのにすばるはくるみと抱き合っている。 これは何の幻なのだろうか? それとも、神様の見せた優しい夢? 「愛してる。とでも言えば満足なんだろう、なあ?」 「え」 冷水のような言葉に、すばるの声はこわばる。 「お前は私のことを愛しているのかもしれないがな!」 くるみがすばるの耳をがりっと噛んだ。 「痛い……」 「後輩、お前は罪を自覚しているか? 私はな、あれから全然眠れないんだ。どうしてだかわかるか?」 くるみが口を離すと、耳にはくっきりと赤く歯型が残っていた。 「ああ、もう、我慢できない」 くるみはベッドの上にすばるを押し倒し、ブラウスを左右に破り、あらわになったブラを付けた胸に鼻先を押し当て、胸いっぱいに彼女の匂いを吸い込む。 「や、やめてください! また小さくしますよ!」 「小さくすればいい」 「脅しじゃありません! 今度は、絶対に元に戻しませんよ!」 「むしろ、そうしてくれ……ねえ、小さくしてよ、後輩!」 表情の見えない。くるみの言葉に、すばるは大きな気泡を含んだ唾を嚥下した。 「私はもう、後輩なしじゃないと生きられないんだ。頼む。おかしいのはわかってる。これは、好きとかいう感情でもなんでもない。でも、けど、切なくてしょうがないんだ」 悲痛とも言えるくるみの声と掛け時計の音だけが、室内に響く。部屋の中の酸素の濃度が、十分の一ぐらいにまで減ったかのように息苦しかった。すばるは右手首を見た。ハンドトゥハンドは泡を立てて溶け始めていた。消滅しているのではなく、すばるの体へ取り込まれようとしているのだ。 「ねえ、先輩。先輩は、私のこと、嫌いですか」 「大嫌いだ」 「じゃあ……先輩は、私のこと、好き?」 くるみは痛みに耐えるような表情をして顔をそらす。そして、ゆっくりと顔を正面へと向け、すばるへの言葉を紡ぐ。自分の腹の中で小人が暴れていた。内側からハンマーで殴られているみたいな心臓の音がする。 「大好き、だ」 こらえ切れなくなったとばかりに、くるみは再びすばるを抱きしめる。くるみの瞳にいつのまにか溜まっていた涙が、頬を伝って流れ落ちた。くるみは叫ぶ。 「ああ、好きだよ! 大好きだ。産まれる前からすばるのことが好きだったに決まってるさ! でも、それが本当なのか、もうわからないんだ。わたしの本当の気持ちは、どこに行ってしまったんだ? 憎むよ、後輩。あそこで別れていてさえすればお前への気持ちはずっときれいなままで残り続けていたのに。ばか、ばか、ばかああ!」 くるみの慟哭につられたように、すばるも涙を流していた。 「ごめんなさい、ごめんなさい! でも、もう逃さない。二度も見逃したりはしない! 残念ですけど、これから先輩は、ずっと私と一緒にいてもらいます。私のペット……いえ」 すばるは瞳を固く閉じた。ベッドの上に座りなおして、そっと、くるみの頭の上に右手を添える。彼女は、自分の意志で再びここに戻ってきてしまった。もう放逐しても無駄だ。これはハンドトゥハンドの呪い? 呪いなら、呪われたのは誰? 捕らわれたのは誰? 「恋人として」 優しい手つきで、目を閉ざしたまま甲を上にした右手を往復させる。 (食糧としての間違いじゃないのか?)天窓から自分を見下ろす自分の声がする。にじんだ意識の中、視界に入ったくるみの姿は比喩でも何でもなく美味しそうに見えていた。でも、もう食べたりはしないよ、きっと。(お前はひとでなしだ。人食い鬼だ)そうさ、だから奪う。 「なら、私のことを好きになりなおしてください。だんだん私のことを好きになってください」 力も入れていないのに、往復させるたびにくるみの頭の位置は低くなっていく。同じ高さから、肩から下へ、胸の谷間へ、お腹のあたりへ。くるみの鳴き声はだんだん小さくなっていく。 「 撫でるたびにくるみの体は少しづつ縮んでいく。くるみの頭がいつしか広げた手のひらと同じくらいの大きさに。手のひらにすっぽりくるまるくらいに。指でつまめるくらいに。しかし、存在の温度はどんどん高くなっていく。磁石に引きつけられる砂鉄のように心が宇宙旅行をはじめる。星々は堕ち、隕石となって地球へと降り注ぐ。月に穴が空き、火星が燃え尽き、地球が砕け、太陽が爆発し、銀河の全てが滅んでも、くるみとすばるはまだそこにいた。 自分の中にはまだくるみのかけらがある。(ごめんなさい)一瞬だけくるみが自分の胎内にいたころ、胃酸が彼女の身体の何百分の一かを溶かして、吸収してしまったのだ。そんな中途半端な量しかお互い摂取していないのだ、中毒もしかたないね? (ごめんなさい)これは正しい? 正しくない? この期に及んで自問自答する。いや、わからないままでいいのかもしれない。(ごめんなさい)たったひとつ確かなことが、今自分の手の中にある。(ありがとう)未来? わからない。過去? 振り返らない。これから正しくしていけばいいのだ、きっとそうだ! 過ちも、突き通しさえすれば正しくなるだろう! 自分の太ももの上にいるその存在を、傷つけないように手のひらをお椀状にしてすくう。 「おかえりなさい、くるみ」 くるみは目を開いた。 (ハンド・トゥ・ハンド 終わり) 前へ 戻る |