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11.永い夢が明ける

 居間に戻ったすばるは、食器棚から取り出したカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぐ。出来上がった即席のコーヒーを口に運ぶ。苦さが咥内に溜まった汚れを浄化してくれるような気がした。
「おやおや、私にもくださいよ」
 どこから現れたのか、宙には一週間ぶりに見たあの自称女神――ニニアンが舞っていた。時空間の干渉を受けない彼女は、すばるの了承を待たずにコーヒーに顔ごと口をつける。
「ぺっぺっ、苦い。なんですかこれ、ヘドロの出来そこない」
「かってに人のを飲んでおいて失礼な言い草。それで、何の用なの?」
 彼女が用もなしに姿を現すとは考えられない。
「いえね、あなたがハンドトゥハンドの二人目の対象を取ってしまったことについての話」
「……はあ」
「説明しませんでしたっけ? ハンドトゥハンドが小さくできる生きた知的存在は一人まで。二人以上も可能ですが、放っておくと元に戻ってしまいます。三十時間ごとの更新周期まではあと二十六時間。それまでにハンドトゥハンドの対象を一人に戻さないと、二人とも元の人間サイズに戻ってしまいますよ」
「元の大きさに戻ったら……二度と小さくはできない、だっけ。で、具体的にはどうしろって?」
「どちらかにかかってる縮小効果を解除するしかないですねえ。しかし、我ながらこの制限はフレーバー的にもよくできていると思いますよ。本当に大切な存在は、たったひとつしか手中に納められない。まあ、ワーデンにはこれでもチートだって言われてますけど」
 ニニアンは得意げに小さな胸を張る。
「……ねえ。『生きている』『知的存在』が二つあっちゃいけないんでしょ」
 すばるの出す声は、出した自分でも驚くほどに感情のない冷やかなものだった。開いた手をニニアンの目の前に差し出し、ぐっと握りしめ、見えない何かをすりつぶすかのように指をわしゃわしゃと動かす。胴をすばるに一つかみにされるほどの大きさのニニアンはうっすらと笑んでそれを見ていた。
「こうしちゃってもいいんでしょ?」
「……あなた、プレイヤーの素質ありますよ。レールから車輪がはずれてるのにも気づかないでそのまま爆走し続ける機関車みたい」
「そうさせたのはあなたじゃない」
「何をおっしゃる。私は、ただ選択肢を示してあげただけですよー」
「そういうのを、不自由な二択って言うんだけど」
「人生などままならぬ二択の連続ですよ。告白する? 告白しない? 母を殺す? 父を殺す? 生きる? 死ぬ? 戦う? 逃げる? すべての運命は無限の過酷な二択の積み重なりによって構築されていくのです」
 悪魔的な過酷な二択を課していることをニニアンは否定しなかった。
「ま、せいぜい良き運命を選択せんことを」
 笑みだけを残し、ニニアンは宙へとかき消えた。
「ま、焦る必要もないか」
 そう、猶予はまだある。
 お腹をさする。コーヒーでは飢えをごまかせない。そういえば、買い出しに行かなければならないのだった。ドアノブの上で泣いているかわいそうな小虫を回収して出かけよう。

 *

「……」
 妹が白い靴下の底でうずくまっているのを、しゃがんだくるみが心配そうに見ていた。
「ねえ、大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ない」
 かすれた声で妹は答えた。できるだけ淀んだ空気を吸わないように、体を動かさないでいるのだ。湿り気で髪の毛が顔に張り付いていた。二人は今、部屋に紐でつり下げられた靴下の中にいる。二人まとめて虜囚にされたのだ。
「私がなにさせられてるか、知ってるでしょ」
「知ってる。すばるさまの足指の間を、ずっと嘗めさせられてたんでしょ」
「舌がひりひりする」
 妹は口の中のものを吐き出すジェスチャーをする。
「でも、だんだん慣れてくると楽しくなるよ。靴下の中、前よりつらくないでしょ?」
 安心させようと思ったのに、なぜか妹はますます震えるばかりだ。
「助けて、お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「うん、大丈夫、私が守ってあげるよ」
 すばる様がいつもくるみにそうしているように、くるみは妹を抱きしめた。こうされると安心できるのを知っていた。だんだん妹の震えは小さくなっていく。
「でもね、なんでだろう? お姉ちゃんって呼ばれると、胸が痛いの。初めて呼ばれるはずなのにね、聞き覚えがあるみたいな」
 妹は、いつのまにか静かに嗚咽を漏らしていた。

 *

 そんな様子を、靴下の穴に片目をつけてすばるはずっと観察していた。
(やっぱり――すべきだよね)
 完全な数字の成立を邪魔した人間の始末など、昔から決まっている。飼おうなどと気まぐれを起こしたのがいけなかった。
 しかし、手段はどうしようか? ただぷちりと潰すというのも、なんだかつまらない。それに、妹とくるみは不本意なことに仲良くなり始めている。くるみの納得のいく形でどうにかしたい。
 ふと、妙案が浮かぶ。くるみはどうだか知らないが、自分にとってはこの上なく愉快だ。早速実行に移すことにした。

 *

 すばるは手のひらの上に、二人を並ばせて乗せた。妹はあいかわらず恐怖に震え、くるみにしがみついて離れようとしている。その態度が、すばるからためらいを奪う。
「くーちゃん、今までよく私に尽くしてくれたね。今日は、私からご褒美をあげる」
「やったあ! なんですか、それ!」
 くるみは飛び上がってはしゃぐ。
「ふふっ、あなたのすぐ近くにいるよ」
 すばるはくすくすと笑って、二人を乗せていない方の手の指を鳴らした。それがスイッチだった。腕時計に触れる必要はもはやなかった。
「え……?」
 それと同時に、くるみにしがみつく妹の体がどんどん小さくなっていった。
「や、やあ」
 尊厳が奪われていく音がする。すでに腰にやっと背伸びして届く程度の背丈になっていた妹は、それでも必死にどこかに落ちまいとするように、くるみへとしがみつこうとしていた。
 しかし、縮小は止まらない。腰に回された手は尻をなぞり、すねをさすり、そこにも届かなくなって足の甲の上へと座り込む。
 くるみが手で妹を拾い上げる。子犬ほどになった妹は手の上でもさらに縮み、最終的に指先サイズ――すばるにとってのくるみの大きさのサイズにまでなった。
「彼女は、今日からくーちゃんの所有物よ。友達でも、妹でもなく、ね」
 すばるはふっと息を吹きかけた。くるみにとっては少し強い風にすぎなかったが、およそ千分の一の大きさと化した妹にとってそれはすさまじい烈風だった。彼女はなんの抵抗もできずにくるみの手のひらからすばるの手のひらへと転がり落ちていく。
「ほら、ちゃんと守ってあげなきゃ、あなたのものなんだから」
 注意を促すが、すばるにとっては今ここで千メートル相当の高さから落下して存在を消滅させようがどうでもよかった。遅いか早いかの違いでしかないのだ。もう、どこにいるのかすらもわからないし。
 くるみはすぐに妹を見つけた。すばるの生命線のしわにはまってもがいていた。くるみはくすりと笑う。自分にとってはささいな地面のでこぼこが、妹にとってはとてつもない谷なのだ。微笑ましくもなる。
 妹を拾い上げると、まるでそれがくるみ自身だというかのように必死に指にしかみつく。
 砂粒の大きさの人間にとって、自分を見下ろしている巨大ななにかや、自分のいる広大な大地が一体なんなのかは正しく判別できていないだろう。たった三十倍ほどの大きさのくるみが、いまや妹にとって唯一の現実だった。
 くるみが妹を正しく確保できたことを確認して、すばるは注意事項を伝える。
「それ、明日のこの時間までには殺してね」
 ゴミはちゃんと分別してね、みたいな日常的な口調で。
「え?」
「本当は、そいつは今すぐにでも殺さなきゃいけない極悪人だったの。でも、すぐ死刑にするよりはくーちゃんに奉仕させたほうがもったいなくないかなって思ってね。食べちゃってもいいし、潰しちゃってもいいよ」
 言葉を口にするたびに、気分が高揚するのを感じる。
「……いったい、どんなことを?」
「そうね……」
 別に考えていたわけではなかったので、数秒刑の理由を考えるのに費やす。
「……殺したのよ、あなたの、お父さんを」
 口から出任せにしては、なかなかよくできているとすばるは思った。……実際、殺しそうになっていた。言い終えると、なぜだか呆けた表情でくるみがこちらを見上げていた。
「どうしたの?」
「い、いえ」
 くるみは、手のひらの中にいる妹を睨みつけ、ぎゅっと握りしめる。握りしめられた方にとってはぎゅっどころではないだろうが。
「許さない」
 くるみの反応を見るに、妹は釈明をしているようだったがそれを介する様子もない。
「あんな顔を、させるなん……て……」
 くるみのつく息が、はあ、はあ、と荒くなる。
 興奮しているのだろうが、それにしても激しい。
「……」
 くるみは、妹を握りしめたまま、ぽてりと手のひらの上に倒れた。

 *

 くるみは熱を出していた。
 味の濃い食べ物を受け付けず、汗をだらだらと流し、水のような下痢を出す。清潔な布で体を拭いてやり、濡れたガーゼで頭を冷やさせて安静にさせたが、数日たってもよくなる気配は見せなかった。明らかに衰弱していた。
「すばるさま……おつとめは、ないんですか」
「ゆっくり休んでなさい、くるみ」
 おでこのガーゼをはがし、切った西瓜のかけらをスプーンでぴとりと乗せる。
「ひゃっ」
「ふふふ、女体盛り」
「もうっ」
 くるみは額に手を伸ばしてそれを取り、ちびちびとそれを食べ始める。
 家に市販の解熱剤はあったし、病院に行けば適切な治療と適切な薬を処方してくれるだろう。五.四センチの人間を診てくれる病院も、その体にあう薬もなかったが。
 翌日には、さらに様態は悪くなっていた。固形物を受け付けなくなっている。砂糖水だけが、彼女の接種した唯一の栄養分だった。
 医学の発達していない中世以前は風邪をこじらせて死ぬ人間が少なくなかった。それと同じことが、今、すばるの目の前のバスケットの中で起こっている。
 原因にはいくつか思い当たりがあった。連日の監禁。衛生状態の悪さ。過酷な運動。無理をさせすぎた。
「ところで、あの子はどうしてるの?」
「ちゃんといるよ」
 くるみは、下半身の秘部に手を伸ばし、それを取り出した。指にしがみついているらしいが、ゴミかチリにしか見えない。くるみが千分の一だったときはそれと識別できたのに。
「なかなかやるじゃん」
 おそらくは自分のマネだろうが、自分の秘部に奉仕させるとは。設定上は彼女の親の仇なので、それだけ憎んでいるということのだろう。すばるが感嘆の声をあげると、くるみはえへへと笑った。
「私のお父さんのかたきだから、本当は甘いんじゃないかなって思うけど。でも、小さなこの子を見ていたらなんだか許してもいいような気になってきちゃって」
 くるみは手のひらを胸元に寄せて微笑む。すばるは知らなかったが、その笑いはくるみに向ける笑みと同じものだった。
「私はおつとめするのが好きだから、この子もきっと楽しいんじゃないかと思って」
 実際のところはどうなのだろうか。すばるでは妹の表情を確認することはできないのでわからない。
「ねえ、あなた、私のことばがわかる?」
 妹を手に乗せるくるみごと手の上に乗せ、そのチリのような人間に話しかけてみる。彼女からは自分のことがどう見えているのだろうか。くるみは自分の全身を認識できていなかったが、妹は手のひらを認識出来るかも怪しい。虫サイズのくるみは思考が獣に近づきつつあるが、妹を蚤の大きさで飼い続けたら脳が虫になってしまうのではないだろうか。想像もつかない。虫の思考をする人間も少しは興味があったが、観察が困難すぎた。
「何か遠くの方で雲か海が動いてるみたいで、何かはわからないって!」
 やはりわかっていないようだった。くるみが手のひらの妹にすばるの言葉を伝え、妹の言葉をすばるへと伝えた。神託を民へと告げる巫女とはちょうどこういう存在なのだろう。つまり自分は妹に対する神なのだ。なんとなく得意になる。
「あなたが手のひらに乗ってるくるみは、私の手のひらに乗ってるんだよ」
 知性とはなんなのだろうか。人間とコミュニケーションが不可能な存在を人間と呼べるのだろうか?
 妹という人間に対して感じていた苛立ち、憤りは今やすっかり消え去っていた。許したわけではない。存在を感じられないモノに対してそんなものをいだいていても仕方ないからだ。好きなだけくるみと仲良くすればいいとすら思っている。
 しかし、もう刻限は近い。ハンドトゥハンドの定義する知性ある存在に妹は当てはまるのだ。
「妹ちゃんをちょうだい、くるみ」
 負の感情はなかったが、妹という存在にこだわりはなかった。
「おなかすいてるの?」
「どうして?」
「だって、食べるんでしょ。わかるよ」
 そんな会話を、当事者である妹がどんな気分で聞いていたかは定かではない。
「ねえ、すばる、お母さん」
 か細い声で、くるみはすばるを呼ぶ。
「なあに」
「妹を食べるなら――私を、食べて」
 震えた手を、星を求めるかのように伸ばし、願う。その瞳は、まっすぐ揺れずに同じ方向を向いている。
「妹は、食べられたくない、死にたくないって言ってるもの」
「そんなに妹がいとおしいの?」
 胸のあたりに、ちくりと針を刺されたように痛む。
「それだけじゃないよ。もう、私死んじゃうもん。死ぬ前に、お母さんの役に立ちたい」
「……」
「それに、こうすればずっといっしょにいられるもの」
 くるみは死など恐れていなかった。命などどうでもよかったのだろう。文字通りの意味に。
(私が殺した)
 かつてのくるみを。先輩を。食いちぎった。剥ぎ取った。人間としての体、意志、尊厳、誇り、空気、居場所を。しかし、くるみはくるみでいつづけた。もちろん、それでいい。人形では意味が無いのだから。
「私はいやだよ」
 いつのまにか、頬を熱いものが流れていた。
 同性愛者の自覚なんてない。けれど、千賀くるみがハンカチを手渡してくれたその日から、ずっと心は彼女のものだった。胸の高鳴りは、そこに真実の愛があると信じさせるに十分な説得力を持っていた。
「私はずっとくるみと一緒にいたい。朝起きたら、くるみがそばで笑っていてくれる。おはようって言ってくれる。それだけでいい。それだけでよかった。くるみが歳をとって、しわしわのおばあちゃんになるまで、いや、なっても、ずっとその日常は続くの。続くはずだったの。でも、もうおしまい。私が、何もかも終わらせてしまう」
 くるみのしなやかな優しさは、指では捉えられないような小さな泡に似ていた。幽閉されてなお妹を案じるその様子が、すばるが特別な存在でもなんでもないことを残酷に教示した。少なくとも彼女自身はそう感じていた。
「終わらせるのはこれからだよ、すばる様」
 小さく弱々しい、しかしはっきりとした声がすばるの耳に届く。完全に破壊されたはずのくるみの知性と理性が、死に瀕し燃え盛るような輝きを放っていた。
「あなたが私を産んだのだから、それを殺すのもあなたの役目だよ、すばる様。私の命に、責任をとって。私は産まれてきて、すばる様といて、幸せだった。それを肯定してよ!」
 なにもかも狂ってしまったとしてもそこに新たな秩序は生まれる。生後七日、寿命七日のくるみは虫の真理へと到達した。もう、怖いものはひとつもなかった。
 人間のすばるは悟れない。楽園など続かない。永久は存在しない。花が枯れるように。雪が溶けるように。周り続ける歯車などないように。夢が覚めるように。わかっているつもりだった。だけど、受け入れられなかった。
 右手の腕時計もどきに目をやる。選択肢はもうひとつだけ残されていた。でも、それを取る気にはとうていならない。この閉じた楽園の幸せを自ら手放す気にはなれなかった。そうするくらいなら、くるみを溶かして本当の意味で『自分のモノ』にしたい。それが、けじめだ。
「……わかった」
 食べてあげるよ、くるみ。それがあなたの望みなら。

 *

 妹はくるみの手の中でずっと震えていた。広漠の天へ向かって殉教者のように叫び続ける自分は、妹にとってどう見えていただろうか、とくるみは想像する。少なくとも、これからくるみが何をするかはわかっていたらしい。泣きそうな顔で、手のひらの上に四つん這いになって懇願している。
「ねえ、行かないでよ。お姉ちゃんのことならずっと舐めてあげるから。私に出来ることならなんでもするよ。風邪だってきっとそのうち治るよ」
 しかし、くるみは首を横に振る。
「ううん……わかってるんだ。私、もう長くないって。大丈夫、何も怖くないよ。あるべき場所に帰るだけだから。私たちをとりまく世界が意志を持ったり呼吸をしたりしてるって、想像したことある? それが、すばる様なんだよ」
 くるみが人差し指の腹で背中を撫でてあげると、少し妹は落ち着いたようだった。
「妹のこと、大事にしてね、すばる様」
 一緒に食べられたりしないように、くるみはバスケットの中に妹を置いた。
 せいぜい、頭が虫になるまで大事に飼ってやろう、そうすばるは思った。
 銀色の大さじスプーンの上に、くるみは乗っていた。凹面鏡になったそれが、くるみの裸体を逆さまに移している。
「ねえ、まだ?」
「あわてないで、くるみ。私にもこころの準備をさせて」
 スプーンを手に取り、自分の顔に近づける。スプーンに乗ったくるみは、まるで元から食べられるために作られたかのようにおいしそうに見えた。上気した桃色の肌はケーキに乗っているマジパン細工みたいだけど、あんなものよりもずっとずっと精巧だ。
 くるみが澄んだ目でこちらを見つめてくる。すべてを信じ、すべてを捨てた人間の、殉教者の目だ。
 自分の手の中で、スプーンの上で、暴れてくれたほうがよほどやりやすかった。調教がうまくいきすぎたのかもしれない。すべては手遅れだ。
「いくよ」
 口を開け、スプーンをそろりそろりと口の中へと入れていく。口を閉じて、スプーンを引き抜く。くるみはもういなかった。舌の上に、くるみがいるのを感じる。
 すぐに飲み込んだりはしない。上顎に押しつけてみたり、逆に舌の裏へと沈めてみたり、頬の肉袋まで転がしてみたりする。
 舌の腹でくるみを隅々まで愛撫する。味蕾が肉をこそげ落とさないように、そっと。
 そして。
 こくん。
「ん……っ」
 喉を、異物が通っていく。
 これから、くるみは知恵ある存在としてではなく、ただの食べ物として扱われる。すばるの意思とは関係なしに。喉を通るものの感触が消える。もう、何も感じない。くるみは、今頃は胃酸に苦しんでいるのだろうか。それとも、酸欠でもう意識はないのだろうか。
「――っ……」

 *

 やわらかい肉に包まれている。濡れた波打つ肉に揉みしだかれながら、奥へ奥へと運ばれていく。ちょうど一ミリの大きさの時にすばるの下の口に包まれた時と同じ蒸し暑さと息苦しさだった。もっとも、雰囲気で言えば飲み込まれる前と大して変わりはしない。ずっとすばるの腹の中にいたようなものだった。少し湿度と温度が違う、それだけにすぎない。
 暑苦しいが、肉のクッションは柔らかく、気持ちがいい。食べられたものがこうして食道で揉まれるのは、きっと死にゆく運命にあるものへの最期の慰めなのだろう。人間の体というのはよくできている。
 そのうちに、すべてが遠ざかるような感覚がくるみを襲う。肉の感触も、暑さも苦しさもどこかへと消えていた。胎内の暗闇は、無の暗闇へと差し替えられていた。ここにはもう、なにもない。楽しさも、辛さも。
(死んだ?)
 ずいぶんあっさりとしたものだった。苦痛も走馬灯もない。夢のように穏やかだ。死ぬというのは、案外楽なものだったのかもしれない。すばる様に消化されたからかもしれない。だとすればラッキーだったなあとのんきに思う。
 暗闇の中に、白く光るものがある。
 それは女の子だった。自分と同じ大きさの、すばるだった。涙を流しながら、口を大きく開いて、何か叫んでいる。が、聞こえない。死んだ人間に聴覚などあるわけないから別に不思議な話ではなかった。向こうも、正面にいる自分の存在に気づいていない様だった。すばる様も死んだ? まさか。
 確か、こんなことが、前にもあった。すばるの肉の壺の中で出会った時はちゃんと何を叫んでいるのか聞こえた。
『ねえ、生きてる? 返事してよ、ねえ、返事して!』
 でも、今と同じでくるみの姿は見えていないようだった。
『冗談でしょ、ねえ、先輩、先輩!』
 きっと、自分のことが見えなくて不安だったのだろう。だから、ぎゅっと抱きしめて教えてあげる。自分はここにいるよ、と。でも、すばるは泣き止まない。
「なあ、後輩」
 それなら、泣き止むまで抱いてあげるだけだ。肌の感触を通して、すばるの不安と恐怖が伝わってくる。そのほんの少しでもいいから、肩代わりしてあげたい。理解してあげたい。共有してあげたい。
 すると、今まで経験してきた情景が時間軸を逆にして次々と再生されていく。靴下の中に入れられたこと、おしっこのプール、ショーツへの奉仕、お腹へのデコピン。どうやら走馬灯らしい。少し遅い。全身が焼けつくように痛む。
「私はお前に対して、勉強を教えたり、デコピンしたり、はたいたり、たまに頭を撫でてやったり、それぐらいしかしてやれないよ」
 いまさらになってどうして思い出すのだろうか? そういえば、学校の授業で記憶は完全に脳から消滅せず、参照不可能になっているだけだと知った。こうして身も心も溶かされる過程で、奥底に眠っていた記憶が再び表出してきたのかもしれない。
 小人の街、大きなソフトクリーム、浴槽の海、着せ替えごっこ、ポケットの中。
「それなのに、どうして私のことを好きになったんだい?」
 改札口。

『好きなんです、先輩のことが!!』
 
 あれには本当に驚いた。まさかそんなふうに思われていただなんて想像もしなかったから。
 あまりに驚いたので、ただ普段から思っていたことをするりと口にしてしまった。照れ笑いを浮かべて、ね。墓場までずっと胸に秘めておくはずだったのに、ね。

 *

 ――ああ、ちくしょう、なんで。
 手のひらの上に自分の胃液まみれで横たわるくるみを、うつろな目ですばるは見つめていた。全身の皮膚は赤くなっていたが、大した外傷はなさそうだった。ふやけた肌は、うかつに触れれば剥がれてしまいそうだった。
 あれからすばるは急に得体の知れない悪寒が走り、浴室へ行って喉に指をつっこんで、吐き出していた。人間の限界だった。
 くるみの前では災害としても女神としても振る舞える彼女は、しかしせいぜい質量にして四十キログラムしかない小娘であり、誰かを殺せたりはできない。
 孤独な少女は、残酷な主人や冷徹な神を演じることを、とうとうやめたのだった。
 手のひらで眠るくるみを見ると、最初のあの日を思い出す。五.四センチに縮めたあの時のことを。でも、あの時とは逆だ。
 ゆっくりと指を折り曲げると、小さなくるみの体はそれに隠れる。
 再び指を広げると、もうくるみはいない。

 *

 妹は目を覚ました。
 ずっと長い間夢を見ていたかのような感覚だったが、見慣れない天井と着慣れないシャツの感触がそれを否定する。ベッドに寝かせられているようだ。
 寝たままに横を見ると、この一週間探し求めていた姉、くるみが眠っていた。ちゃんと、等身大の。
「お姉ちゃん!」
 がばりと体を起こしくるみを揺り動かすと、彼女は目をこすりながらゆっくりと起き上がった。
「ん、あれ、すばる様……」
「私はすばる様じゃない! お姉ちゃんの妹!」
 一発張り手をかますと、ようやくくるみは今自分がいる世界を把握し、妹の姿に驚いて飛び退る。
「うわあ!」
 錯乱してベッドの上で立った上にジャンプしてしまい、思いっきり頭をぶつけてベッドの上に尻餅をつく。それほど大きいわけでもないベッドがギシギシと揺れる。
「あ、あれ? 大きい……わたし……」
「お姉ちゃん、自分のことわかる? お姉ちゃんは千賀くるみ。生まれて十何年と女の子をやってる。身長は百六十センチぐらいで、私の実の姉!」
 くるみは何度も自分の手と妹を見比べて、呆然とつぶやいた。
「そうか……元に戻ったのか」
 実感がわかなかった。靴下やバスケットから、マンションの一室を模した箱に幽閉されているだけではないかとも疑ったが、あの独特なべたつくような空気がない。部屋の主人であるすばるの気配もなかった。
「早く帰ろ、こんなところから。こんなところ、もう一秒たりとも長くいたくない!」
「う、うん」
 戸惑いながらも、弱々しく受け答えする。ずいぶんと長い間、小さくされてこの部屋を風景として眺めていたので、その風景と同じ大きさで自分が立っているという事実に困惑する。妹は小人として暮らした期間が短いせいか、そういった後遺症はないようだ。
 あまりに非現実的な体験だった。今まで後輩の家でずっと眠っていて、そこで見ていた夢だったのではないだろうか?
「家に帰ったら、まずお風呂だね」
 言われて自分の臭いを嗅いでみると、少女の酸っぱいような、甘ったるいような臭いが自分の体にしっかりとこびりついていることに気づく。自分の身に降り掛かった奇怪な出来事が、紛れもない現実であることを後輩になすりつけられた淫臭が教えてくれた。
 居間を通りぬけ、玄関へと歩む。靴下も、バスケットも、人形の服も。七日間のただれた生活の痕跡は、すばるごと消え去っていた。 
 
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