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7.守ってあげたい

 ワーデンはつくりものの町の市庁舎を模した建物の屋上でハンドトゥハンドのレプリカの製作者が訪れるのを待っていた。
 彼は今、この町の住人のサイズと同じ百分の一の大きさだった。動くだけで建物を傷つけてしまう元のサイズではあまりにやりづらいため、住民たちの前に姿を現すとき以外ではこうして小さくなっている。
 そんな彼の細かい思慮も、来訪者にとっては知ったことではなかった。
 地震が起こる。堅牢なはずの建物も大きく揺れていた。しかし、地震と違うのは、揺れ自体はものの数秒で収まるかわりに、断続的に続くと言うことだった。
 ワーデンの視線の先に映るのは、一糸まとわない姿の巨大な女性だった。少女、といって差し支えはないだろう。
 彼女はただワーデンへと向かって歩いているだけだった。それだけで、このゴーストタウンには甚大な被害が発生する。彼女の踝程度の高さの建物は、彼女の進路上にあればもちろん踏みつぶされ、蹴りとばされ、砂糖細工が内側から爆発したかのように崩壊する。彼女の進路上になくても、その近くにあれば触れていなくてもその振動と衝撃だけで崩れていく。それらは決して無人ではなく、中で生活していた人間もいたはずだったが、彼女には悲鳴が聞こえるどころか存在すら気がつかなかっただろう。
 彼女はたった一人で、竜巻と地震を併せて二でかけたような災害だった。
 とうとうワーデンのいる建物のすぐそば――五十メートルほどにまで近づいた彼女は、一本一本が大木の幹ほどもある指で市庁舎をつかんだ。これだけで崩れそうになる。彼女はにっこりと笑った。
「ワーデンさんちわーす!」
 少女の背中には、虫羽が生えていた。羽ばたけば衝撃波を起こし、その一帯を切り裂いてしまいそうなほどの大きさの、だが。

 *

 三日目の朝を迎えていた。
 先輩は目覚め、周囲のシルクと着なれないネグリジェの寝間着で自分が元の大きさに戻っていないことを確認した。失望はしない。今日も、先輩は後輩の枕元のバスケットで丸まって寝ていた。
 昨日の朝とは違うのは、腰に革のベルトが巻き付いていることだった。
 覚醒しきっていない頭で昨日の出来事を思い出す。
 ミルクの海。踏みつぶされかけたこと、ゴーストタウン。安全ベルト。風呂。食事。睡眠。それ以上特筆するべきことはとくにない。
 強いて言えば、昨日も後輩は自分で自分の体を洗うことを許してくれなかったことぐらいか。

 今日も、一着しかない下着とネグリジェの股間の部分がかぴかぴに乾いていた。憂鬱になる。昨日はミルクに落ちたことで結果的にごまかせたが、毎回そういうわけにもいかない。
 すう、と深呼吸すると少女の匂いが鼻孔に広がる。寝床のシルクとすぐそばにある後輩の巨大な肉体の臭気が二重に重なっていて、濃密そのものだ。
(こんないやらしい匂いがするからいけないんだ。私はいやらしい人間じゃない)
 そう、無理矢理思いこむことにした。後輩のにおいをなぜいやらしく感じてしまうのか、疑問に思うことはなかった。

 寝ている間に至ってしまったせいか、尿意を感じていた。毎日の習慣からトイレを探すが、もちろん後輩の部屋にはそんなものは設置されていない。
 腰のベルトに目をやった。これをつけている限り後輩から一定半径以上には離れられないが、はずすことは簡単だった。しかし、はずすことに意味があるとも感じられなかった。ベルトがなくても、ベッドから降りて数分の距離を歩き、頭上三十メートルにドアノブがある扉を開け、十五メートルの座高を持つ洋式トイレで用を足すことなど、今の先輩には不可能だからだ。
 尿意が耐えきれるレベルのうちに、後輩に頼る必要があった。先日はそれで大変な目にあったのだが、手段を選ぶ贅沢は許されていない。
 今日は後輩は仰向けに寝ていた。
 先日同様後輩の耳へと向かおうと、寝床から出て歩き始め、二の腕をつたって鎖骨のあたりまでたどりついたところで、急に後ろから引っ張られた。振り返ると、突っ張った赤い綱がはるか後方の後輩の右手小指へと延びていた。
 眠るに当たり、後輩は糸の長さにずいぶんと遊びを持たせてくれたが(そうしないと寝返りを打ったとき、とんでもない方向に飛ばされてしまうおそれがあった)、それでもなお後輩の耳へ向かうには足りなかった。
(どうしたものか)
 鎖骨をこりこりと踏みながら後輩という名の大地を眺めていると、布に覆われた二つの丘が目に入った。避けては通れないものだった。耳ぐらいには、敏感だろう。
(これはしかたのないことなんだ)
 誰かにいいわけをしながら、後輩の胸を下っていく。後輩の呼吸とともに膨らんだりしぼんだりする大地は奇妙な弾力があって、歩いているだけで酔っぱらいそうになる。
 足下からは、甘ったるい少女の臭気が立ちのぼっていた。
 自分の身長ほどもある乳白色の丘の谷間までたどり着くと、そこから熱気が溢れだしていて先輩は顔をしかめた。元々暑くないわけではなかった。三六.三度の大地に立ち、その代謝を浴びているのだから当然だった。しかし、ここからは少女の代謝がパジャマの水色のヴェールの中に閉じこめられているのだ。真夏日に匹敵する猛暑と湿気を覚悟する必要がある。先輩は腹を決め、寝間着を脱いで下着だけの半裸になった。ベルトもはずしたが、それは脱いだあとに律儀に巻き直した。
 汗だらけになりながら乳房の中心、谷間に潜りこみ、先輩はそれを殴ったり蹴ったりと試してみたが、弾力ある肉の塊が少しへこむだけで、本体からの反応はなかった。
 意を決して、乳房へと足をかけて登る。汗に塗れた素肌が吸いついてなんともいえな感触がある。大きさ自体はあったが、傾斜のほうはそれほどきつくはない。すぐに、よじ登りきることができた。後輩はブラをつけていなかった。
 赤く充血した乳首は本来ならばかわいらしいものだったかもしれないが、先輩にとっては一抱えほどもあるグロテスクな肉の塊だった。後輩の胸に潜り込んだことで、熱気と体臭はますますきついものになっていた。頭上は胸を覆うパジャマで閉ざされているため、それが逃がされることなく内に籠もっている。頭がおかしくなりそうだった。股間が、なぜだかうずいてくる。
 先輩は乳房の頂上に腰を下ろし、下着に乳首を押し当て、こすりつけた。
 前に後輩に見せてもらった女性向け成年雑誌で見た、男性のあれ以上に太い乳首が、先輩の敏感な部分を行ったり来たりする。その速度は、下着が破れそうなくらいにだんだん速くなってくる。当初の目的など、すっかり忘れていた。
(きもち……いい……)

「何してるんですか先輩?」
 絶頂に達する直前、後輩の声が響いた。腰が引っ張られる。緩くなったベルトが脇まであがり、ずるずると乳首に足を向けて引きずり出された。下着をはしたなく湿らせた半裸の小さな人間が、キーホルダーのように後輩の目の前に吊される。
「い、いつから起きてたの?」
「先輩が乳首に乗っかるところからですね。何をしていたんですか?」
「これは……その」
「何をしていたんですか?」
 後輩は口元だけで笑みを作る。
「何も……」
「何もしてないはずがないでしょう。何をしていたんですか、私のおっぱいで?」
 後輩はあくまで敬語を崩さないが、それは容赦がないことと矛盾しない。
「……ーを」
「え? もっとはっきり言ってください。先輩……の声は、ただでさえちっちゃいんですから」
「オナ、ニーを、してました」
 もつれた舌で、羞恥に耐えながら先輩はようやく答えられた。後輩の顔をまともにみられなくてうつむくが、下には下で後輩の胸がある。どこへ視線を向けても、そこには巨大な少女の存在があった。逃れることはかなわない。
「……どうやってオナニーしてたか、教えてくれませんか?」
 しかし、後輩はそれには満足しない。
「その……私のお股を、後輩の乳首に、こすり、つけて、です……」
「よく言えました」
 後輩は満面の笑みを浮かべた。それは年上の女性に向ける笑顔ではなかった。保護者が幼子に見せる、慈しみの笑顔だった。
「先輩ってえっちなんですねえ。私の体を使ってしちゃうなんて。しかも、気持ちよくなってるのは自分だけ。ずるいなあ」
「そんな……」
「ずるい子には罰を与えなきゃいけませんよね、先輩」
 先輩の体のそばに、先輩をすっぽり飲み込めるサイズの握り拳を作った左手が浮かんできた。
「え……」
「先輩、私が何かしでかすたびに頭をはたいたりデコピンしたりしましたよね。あれ、結構痛かったんですよ。たまには、私がやりかえすのもいいかなーって」
「よ、よせ」
「よせ?」
「……や、やめてください」
「ふふーん、どうしよっかにゃー」
 人差し指がせり上がり、爪をのぞかせて刑の執行の一歩手前の状態になる。拳に隠されていない親指の爪が、妙に鋭く見える。
 後輩の明るい表情とは逆に、先輩の顔からは血の気が引いていた。もし、こんな丸太みたいな指で額をはじかれたらどうなってしまうのか、考えたくもなかった。
「ま、今の先輩にこれをやると首の骨が折れかねませんから、やめときますよ」
 拳の位置が下がり、先輩が安堵しかけ、
「だからこっちにしときます♪」
 胴ほどもある人差し指が先輩の腹に突き刺さった。

「がぼぉっ」
 先輩は空中で体をくの字に折り、振り子のように後輩の指の先で揺れる。本当に、自分の胴体が貫かれたかと先輩は錯覚した。
 おえええええ。口と鼻から体液を垂れ流す。食べたものはとっくに消化されていたため、口から出るものは胃液だけだった。吊下げられたダウザーの硬貨のように回転しながら胃の内容物をまき散らしたため、ネグリジェも少し汚れた。
「あらら」
 とっさに手のひらでそれらを受け止め、舌のひと舐めで拭いとる。先輩の恐怖の味がした。
「こ、こうはい、も、もれ……」
 しゃああ。言い終わらないうちに続いての体液が、先輩の下着から太ももをつたい落下し、後輩のシーツや掛け布団にシミを作っていく。
「あーあ」
「ううっ」
 はしたなく流れる自分の小水をただ見つめることしかできず、先輩の目には涙がたまっていく。
「泣けば許されると思っちゃいませんよね、先輩。これはまたお仕置きしなきゃですよ」
「え、また……」
 先輩の目の前に、ふたたびあの拳がせりあがってくる。
「先輩、正直に答えてくださいね。どうして、私の身体でしてたんですか?」
「え?」
「何をおかずにしてたのかってことですよ」 
「それは、その……」
 言い淀んでいると、目の前で指が不気味にぐねぐねとうごめき始める。先輩はあわてて言葉を探した。
「そ、その! 後輩が、あんまり、いい匂い、してたから、変に、なっちゃって……」
 わかっていても、本人の口から言わせることに意味がある。
「へえ〜。つまり、私が大好きでついしちゃったってことでいいんですね」
「う、うん、後輩大好き」
「嘘おっしゃい♪」
 先輩の身体が再び木の葉のように揺れた。

 *

「あまり暴れないでよ。いくら簡単に直せるからって、あんまりやりたい放題されると手間なんだから」
「暴れるう〜? 私は歩いてきただけですもーん。もろすぎるこの街が悪いんですもーん」
 ワーデンは指を額に当てて、相変わらず自由気ままにすぎるニニアンの言動に呆れていた。
「これに聞きましたよ、ハンドトゥハンドの効果対象を保護したと思って逃げられたんですって?」
 全裸のニニアンは腰の後ろに手を回し、どこかから何かを取り出してワーデンにつきつける。例の振られ男が、ニニアンの指の間でぐったりしていた。
「ほんと、ワーデンさんは抜けてるなあ」
「逃げられたんじゃなくて、連れ戻されたんだ」
「まあ、どっちでもいいっすけど。あ、お腹すいたのでもらいますよ、これ」
 部屋一つを飲み込めそうな口を開き、つまみあげた男をその上まで持っていく。男は、今から何をされるのか理解して暴れるが、小さすぎる彼の抵抗は巨大な女神の爪を動かすことすらかなわない。指が離され、ピーナッツほどの大きさもない男は奈落の底へ落ちる。すぐには飲みこまない。舌先で弄んだあと、奥歯の上に載せて、ひと思いに噛み砕く。
「ふー。やっぱ新鮮な恐怖は美酒ですねえ。最近ファンタばっかり飲んでたもんで」
「人の物を勝手に……」
 ニニアンが大口を開いて笑うと、男の鮮血と内臓の欠片が滴り落ちた。血の匂いにワーデンは眉をひそめる。
「レプリカの効果制限とは何だい、ニニアン」
「ああ、それですか。オリジナルは射程範囲の人間や物体をまとめて縮小とかいうふざけたスペックだったのでそれを廃止し、一度に取れる対象を一つだけにしました。あと、三十時間ごとに更新作業を行わないとサイズが元に戻っちまいますねえ」
「なるほど」
「だから、まかりまちがっても五年前みたいな楽しい事態にはならないと思いますよー。安心してください」
「……」
「あれあれ? ひょっとして、彼女を救いたいなんて思ってるんですかあ?」
 ニニアンが屋上を両手で挟み込むと、堅牢なコンクリート製の建物はたちまち崩壊する。瓦礫に飲み込まれそうになるワーデンを、キャラック船の大きさを持つ両手のお椀が掬い出した。
「あなたは余裕があるからそんなこと考えられていいですねえ。この大きさに戻れたのは久々なんですよお私ときたら。ひさびさの顧客さまさまってところですよドワッハッハッ。彼女はワーデンさんの助力を拒否しているんでしょう? なら、それが彼女の幸せってことなんでしょう。人間、立ち止まったところが楽園って言いますからねえ。私の顧客も、彼女も幸せ、ウィンウィンってやつ!」
「蹴飛ばされたり、反吐を出したりという屈辱的な日々が?」
 その言葉に、ニニアンは急に顔色を変え、親指と人差し指でワーデンの身体を乱暴につまんだ。その表情は険しい。一方、ワーデンはもう少し力を入れられればプチトマトのように体が弾けてしまう状況にも、顔色一つ変える気配ない。
「こんな街……いや、飼育場を作る狂ったあなたが、人の幸せに口を出せる権利があるとでも! 私たちは、人の情動を食らう呪われた超越存在。取るべき責任も、与えられる幸福もない!」
「……そうだ。ぼくたちに、何かをする権利はない。ただ、見守ることだけだ、許されるのは」
 ニニアンは笑いを取り戻し、ワーデンを手の上から乳房の上へと移動させる。形のいい胸は、ワーデンのごときちっぽけな存在が乗ったところで動きはしない。
「わかってるならいいんですよぉ。あ、まだ足りないんで何匹かもらっていいんですか? 口の中で暴れてくれるイキのよさそうなのを」
「……仕方ないな。後始末しやすいようにね」
 ワーデンは嘆息を深くする。

 ウィザード(奇蹟使い)、デミゴッド(魔神)、プレインズウォーカー(次元渡り)、アバター(かつて人だったもの)……さまざまな呼び方をされてきた自分たち超越存在だが、やはり、プレイヤーという呼び名が最もしっくりくるというのが好対照な性格のニニアンとワーデンに共通する認識だった。
 何もしないことしか許されていないのが、プレイヤー(幸福を祈るもの)だ。

 *
 
「それじゃ、いい子にしててくださいねっ」
 先輩は、寝床から首だけ出して学生鞄を手にした制服のブレザー姿の後輩が出ていくのを見送った。後輩の姿が見えなくなると、遠くでドアが閉まり、施錠される音が聞こえる。先輩は、久しぶりに本当の意味で一人になった。
 後輩と一緒に学校に行く――正確には、後輩に学校に持ち込んでもらうという案もあった。しかし、ポケットに入れるのはふと外からの圧力がかかると潰されてしまう恐れがあったので却下。鞄に入れる案は、実際に試してみたところ鞄が傾いたとき教科書に押しつぶされてしまう可能性があったので不可。結局、留守番をするのが無難だという結論になった。
 後輩が去ってからしばらくして、先輩は退屈を持て余していた。ここには娯楽がなかった。寝床から出て、リモコンの上でジャンプしてテレビをザッピングしてみても、眠くなるかひたすら騒がしいかの両極端で、先輩を満足させうるものはなかった。
(活字を読みたい)
 携帯からWebにアクセスして精神的な飢えを癒したかったが、貴重なバッテリーをそんなことに費やすわけにはいかなかったし、第一今は後輩に取り上げられたブレザーのポケットの中だった。後輩が帰ってきたら何でもいいから本を読ませてもらおうかと思ったが、自分では表紙を持ち上げるのが精いっぱいだろう。できないことの多さにめまいがする。
 テーブルの上でボーっとしていると、肌寒くなってきた。というのも、罰の一環ということで先輩は下着姿のままにさせられていた。暖かいから別にどうってことないだろうと思っていたが、後輩は冷房をつけっぱなしにして出てしまった。三度くしゃみをしたところで、寝床に避難することに決めた。布団にくるまっていれば寒くはないだろう。それに、退屈な時は眠るに限る。
 寝床のなかに放置されていた例のベルトを巻いてみた。綱の先に何もないのが少し物足りないが、何かがほんのりと満たされた気がした。

 *

 寝床に横になり、瞼が下がりかけてきたところで、呼び鈴の音が室内に鳴り響いた。
(来客……)
 もちろん、応対できるわけがないので結果的に居留守を使うことになる。
 呼び鈴は執拗に鳴らされ、十度ほど鳴らされたところで止んだ。諦めたか、と思いかけたところで今度はドアを乱暴にノックし始めた。ノックなんて行儀のいい音でもなかったが。遠すぎて内容は聞き取れなかったが、何やら叫んでいるのもわかった。
(……しゃ、借金取り?)
 そういえば、後輩は一人でこのマンションに暮らしているらしいが、両親はどうしているのだろうか。後輩のプライベートな事情に関してはさっぱり知らない。
 などと考えていると、ふたたびベルが鳴りはじめた。ドアノブをがちゃがちゃと回す音とのハイブリッドだ。すごい執念だ。諦めればいいのに。
(でも、この執念なら強引にカギをこじ開ける手段を持ってくるかも……)
 そこまで考えが至って、ぎくりとする。もし、今ドアが破られれば、五センチの自分を守るものは何もない。まさか自分目当てに侵入しようとしているわけではないだろうが、見つかれば無事で済む保証もない。ドアを執拗に叩いて開けさせようとする人間が、この部屋の住人にいい感情を持っているわけがないのだ。
(は、はやく帰ってきてよ)
 壁にかかる時計は、後輩の帰宅まではあと数時間はあることを教えてくれた。
 あわてて綱を引っ張ってみても、その先には空気しかつながっていない。
(怖い、怖い、怖い、怖い、助けて!)
 先輩は、シルクの布団を抱きよせて白い天井を仰いだ。視界が、一瞬ぼやける。なんだか天井が遠くなった気がした。
 心細さから逃れるため、布団へと潜り込む。今日の布団は、どこまで潜り込んでも果てがない。戸を叩く音はもう遠い。シルクのなめらかな感触が素肌にこすれて、切ない気分になる。股で布を挟み込んでしごく。
(ああ、もどかしい!)
 布団は、暗闇と欲情をもたらす甘く豊潤な香りを与えてくれた。その二つが、恐怖からの逃げ道だった。ついに先輩は下着を脱ぎ、裸の全身をシルクへなすりつける。
(また後輩に怒られるのかな)
 もうどうでもよかった。心安らぐ甘ったるい香りもいつもより強い。意識が溶けていく。立ちながら座るように。生きながら死ぬように。起きながら夢を見るように。

 *

 遠くで、何か重たいものが動く音で目を覚ました。
「せんぱーいっ、ただいまー」
 後輩が帰ってきて、ドアを開けたのだとわかった。出迎えるため、もそもそと布団から脱出する。
 色情から一時的に解放され、明晰さを取り戻した先輩は、そこで何かが狂っていることを悟る。
 せいぜい自分の首あたりまでだった高さのはずのバスケットの壁面が、はるかに高くなっている。これでは外に出るのもかなり困難だ。
 それだけではなかった。寝床のバスケットの中のものがすべて大きくなっている。小さな部屋程度でしかなかった寝床は教室よりも広い。枕は自分ぐらいの大きさになっている。いつの間にか、バスケットが三倍ぐらいに大きくなっていた。
 どういうことなのか理解しかねていると、後輩が空間を振動させながら戻ってきて、先輩のいるバスケットを覗き込んできた。
「あれ……先輩?」
 後輩の顔を見上げて違和感の正体に気づきかけたところで、後輩が寝床の中へ手を伸ばしてきた。巨大化したバスケットを満たしてしまうほどの巨大な手が降ってくる。
「うわああ!」
 どしん。
 天井のような手が、先輩をよけるようにバスケットに接地した。先輩は、中指と薬指の間にいた。またげるほどだった後輩の指の厚みが、今や先輩の身長に至るほどとなって彼女を囲んでいる。先輩は指の牢獄に囚われていた。
「後輩……どうして、そんなに、大きく?」
「先輩が……」
 後輩の顔は、心なしか紅潮しているように見えた。
「先輩が、ちっちゃくなってるんですよ。さらに」
「……え?」
 言葉は聞き取れたが、意味を理解できない。さらに小さくなっているだって? バカな。五.四センチという小ささですら持て余しているのに? 冗談だろう。
「とにかく、私の手のひらの上に来てください」
 拡声器を何重にも通したかのような後輩の声がバスケット内に響き渡る。
「わかった」
 中指に足をかけ、昇ろうとするがなめらかで弾力のある後輩の指はつかみどころがなく、つるつると滑るばかりで登れない。指が塀のように巨大だった。指の股なら違うかもしれないとそちらへ進んでみるが、えらがねずみ返しのように反り返っていて余計無理だった。
「あはは、くすぐったい!」
 なおも登攀に挑戦していると、塀が突如動いた。こそばゆさに耐えきれなくなった後輩が手をよじらせただけでも、先輩にとっては大山鳴動に等しい。全身を何度も強打し、凹凸のあるシルクの地面にぐったりと倒れこんだ。潰されなかっただけ幸運だった。
「あ、これも一緒に小さくなってるんですね」
 先輩の身体が宙へと浮いた。未だに巻きついていたベルトの糸を、後輩がつまんで持ち上げたのだ。後輩は慎重な手つきで先輩を運び、バスケットの外のテーブルにおろした。テーブルが異様に広い。
「あ……下着」
「先輩の下着ならこれですよ」
 後輩がバスケットから布きれのようなものをつまみだし、立ちすくむ先輩の前に投げてよこす。
 それは確かに先輩のつけていたソックスとパンツとブラジャーだった。しかし、ソックスは脚どころか頭を突っ込めそうなほどに太いし、パンツのクマさんプリントは先輩の顔ぐらいに大きいし、ブラジャーに至っては縄跳びに使えそうなぐらいだった。こんなものを自分がはいていたとはとうてい信じられない。
「これが、今の先輩の身長です」
 唖然としていると、後輩がどこからか塔のように大きい金属製の定規を取り出して先輩のそばに立てた。
 金属定規の側面の一センチと二センチの中間部分が、まっすぐに立った先輩の顔を映し出していた。
「一.五センチ、ってところですかね」
 やけに冷静な後輩の声を聞きながら、百分の一サイズとなった先輩はへなへなと座り込んだ。

 後輩は先輩と糸で繋がっている指貫をはめた。糸で先輩を吊下げて、人差し指の腹へ置き、顔の前まで運ぶ。
 すべてがあきれるほど巨大だった。身長が三.九センチ縮んだのではない。三十倍が百倍に変貌したのだ。今までと同じ手の上で話しているはずなのに、後輩の姿を人間としてとらえることができない。悪夢だった。こんなことが起こるはずがないと思いたかったが、一六二センチの人間が五.四センチに縮んだのだ。一.五センチに縮んでもなんらおかしくはない。
(それにしたって、こんなのって、ない。むしろ、最初からこの大きさのほうが、惨めさは少なかった)
「……今の先輩、私の指先に乗っちゃうんですね、ふふっ」
 その幅ですら先輩の背丈を超える指の上で、先輩はベルトの綱にしがみつきながら震えていた。この大きさの差では、もはや後輩の口元しか視界にとらえられない。その、自分よりも大きい唇が喋るたびに、巨大な赤黒い、糸を引いた湿った洞穴が開くのだ。
「こんなに小さいと、少し加減を間違えただけで、つぶしちゃいそう……」
 後輩は落ちつこうとして大きく息を吸った。
 しかし、先輩にとっては激しい乱気流だった。先輩の今の体重は一〇〇〇〇〇〇分の一、ミリグラム単位だった。後輩の手の上に乗っていても、後輩が重さを感じない程度である。あまりに小さすぎる先輩は、吸気に巻き込まれた。ぽっかりと開いた闇の入口へと吸い込まれていく。
「うわああ!」
 しかし、先輩が後輩の口腔へと飛び込むことはなかった。その寸前で、後輩の下唇へと貼りついていた。先輩からは、自分の体よりもはるかに巨大な白い岩のような前歯がぎらりと光を反射しているのが見える。その下では、濡れた真っ赤な絨毯のような舌が獲物を探すかのように蠢いていた。こんな恐ろしい場所からは速やかに逃げ出したかったが、湿った唇に素肌がぴったりとくっついて動かない。後輩の唾液の粘性にすら抗えないのだ。
 もがいていると、ふたたび体が浮いた。後輩が例によって糸を引っ張ってはがしたのだ。次に下ろされたのは後輩の手のひらの上だった。今までは気にもならなかった、後輩の掌紋がはっきりと見える。人差し指から小指までが突き出した峠のようで、親指の付け根はなだらかな丘になっていた。
「こ、後輩。病院に連れて行ってくれ! もう、一刻も早く元に戻る方法を探さないと! 私たちじゃ手に負えなかったんだよ!」
 先輩は必死の形相で後輩の顔を仰ぎ見て懇願するが、帰ってきたのは信じられない答えだった。
「病院になんか渡しませんよ。それにもし元の大きさに戻ったら、先輩逃げちゃうじゃないですか」
「……は?」
「先輩は、ずっと私に飼われて、永遠にここで暮らすんです」
 後輩の巨大な窓のような両の瞳が、じっと先輩を見据えていた。
「何を言っているのか分からないよ」
「ずっと、あなたを守ってあげます。外の世界には危険がいっぱいですよ。雨は槍みたいでしょうし、そよ風が吹けば巻き上げられちゃいます」
 後輩は、恍惚とした表情で先輩の末路の可能性を語る。
「誰かに踏みつぶされちゃうかもしれない。犬に食べられちゃうかもしれない。鳩についばまれるかもしれない。先輩は小さすぎるから、蟻さんにエサと思われて、巣に運ばれちゃうかも。そして、やんちゃな小学生がその蟻の巣におしっこをかけて、先輩は蟻さんといっしょに溺れちゃうかもしれませんね」
 先輩の視界が暗くなる。指貫をした後輩の右手のひらが天を覆ったのだ。先輩は逃げ出そうとするが、逃げられるところなどあるはずがない。ゆっくりと天井は近付いて、手が完全に覆われる。暗闇に包まれた先輩は、必死に地面を叩いて許しを乞うが、手のひらの大地は凹むことすらなく、先輩の拳を跳ね返した。先輩は叫ぶが、それは周囲の闇に飲み込まれるだけだ。どうにもならないことを悟り、やがて先輩は考えることをやめた。
「わかりますよね? 私の手の中が、この世で、一番安全なんですよ」
 後輩は、先輩の抵抗を全く感じ取れていなかったが、その様子を想像するだけで満足できた。後輩は笑っていた。その笑みに、害意や悪意はない。ただ純粋に、慈しみに満ちた穏やかなものだった。
 
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