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9.ミノタウロスの皿

 喉が、からからに乾いていた。空腹は、しばらく前に感じなくなっていた。
 ここに閉じこめられてから、どれだけの時間が経っただろうか。数ヶ月? 数日? 数時間? ……いや、少なくとも三日よりは経っていない、だろう。こんなところ、そう長く耐えられはしない。
 空間の底に切り取られた、空気穴をかねる丸い窓からはすばるの女の子らしい部屋が見える。ピカチュウもいた。今はゴジラぐらいの大きさだろう。何もかも巨大で、現実味がない。目に映る何もかもが曖昧だ。
 先輩――くるみは、素肌に爪を立てながらあてどない考えに浸っていた。何かに考えを集中しないと、この空間を支配する匂いに意識を支配され切ってしまいそうだった。もしそうなれば、二度と自分を思い出すことはできなくなるだろう。
 くるみは、この期に及んで正気を折らずにいた。折れていないだけで、風が吹きでもすればぽきりと根本からへし折れてしまいそうなものでしかなかったが。
 欲情から解放され、正気に戻る瞬間が何よりもつらい。もしここに刃物があれば、恥辱の勢いで胸をそれで貫いていたかもしれない。すばるの糞尿をせがんだり、怪物のような恥部に奉仕する自分が憎たらしくてしょうがなかった。いっそのこと、正気に返らずずっと『くーちゃん』でいられれば楽だったと思ってしまう。
 脱走を試みたこともあった。底の窓は指先に乗る大きさのくるみですら腕しか通らないサイズなので、ここから脱出するのは不可能だ。穴を広げられないかと思ったが、思ったより頑固な繊維はくるみをいたずらに疲労させるだけで終わった。
 となると、はるか上方の出口しかない。上を見上げれば、斜めに傾いた天井がある。くるみの座る場所から、白い布地が、斜面となって上に続いていた。登っていけばば出口はあるだろう。以前上から逃げようとしたときは滑落し、空間の底にこもった臭気をまともに吸い込んでしまい正気を失うほど発情して、辺り構わず自分の身体をなすりつけるという忌まわしい事態になったので、あまり気は進まない。
 しかし、ほかにするべき事もなかった。意を決し、くるみは六十度ほどの傾斜を登り始める。
 二十メートルほどあった斜面は、さほど苦労せずに登れた。小さなくるみには、本来ならば女の子の皮膚を守る細やかな繊維も、手がかり足がかりにできるぐらいには粗かった。空間のくぼみに座り込み、一息をつく。すばる様の匂いは、牢獄の底よりは薄くなっていた。上を見上げれば、白い空ーーすばるの部屋の天井がまぶしい。この巨大な袋は、どこかに吊下げられて固定されているのだ。
 出口は、あった。五十メートルほど、上に。
 それだけ登り切ればいい。ここから出られるはずだ。不可能な数字ではない。
(不可能じゃ……ない)
 くるみは絶望にへたり込む。無理だった。気力充実した状態なら可能だったろう。ここに入れられてから乱暴にすばる様の手で何度もシェイクされ、長い間餌――すばるが自分に与える食事をそう呼んでいた。まったく適切な呼び方だ――を与えられずに過ごしてきた。再びの滑落が、約束されていた。
 この忌まわしき布のトンネルを、くるみは知っていた。自分から、ここに入ったのだから。

 *

 初めのうちこそ五.四センチと一.五センチを行ったり来たりしていたが、そのうちどれだけすばる様に奉仕しても一.五センチ以上に大きくなることはなかった。それ以上縮んだりしなかったのが幸いとは言えよう。
 人間サイズに戻してくれなくていいです。せめて最初の小ささに。そう何度も哀願した。
<何を言ってるの、くーちゃん。私に頼んだって無駄ですよ。くーちゃんの心が満たされないと、大きくはなれないんですから>
 あくまですばる様は、くるみに問題があるという姿勢を崩さなかった。すばる様がくるみの身長を操作しているというのはわかりきっていることだったのに。それでも、そう言われ続けると本当に自分に責任があるような気になってくる。恐ろしい話だった。
 かくして一.五センチに固定されたくるみから、すばる様はねどこを奪い取った。
<ちょっと大きすぎますよ、くーちゃんには>
 すばる様は、くるみの居住空間だったバスケットを片手でテーブルから撤去してしまった。
「あの、私は、どこで寝れば……」
 初夏の室内とはいえ、全裸では外気がつらい。くるみは震えていた。
<そうね、これをあげます>
 どさり。
 くるみの目の前に落ちてきた、学校のように大きな白い布の塊は開いた大口から不快な臭いをむんわりと漂わせていた。
<それ、私がさっきまではいてた靴下。……気に入らないの? 私のショーツには喜んでもぐってたくせに。置いておくから、勝手に入っててね>
 すばる様は、バスケットを持ってどこかへ行ってしまった。くるみは、じっと尊大にたたずむ廃墟のようなハイソックスの口を眺めていた。
「ああ……すばるの、靴下」
 すばるの素足を半日の間包んでいた白いソックスからは、汗に蒸れて激しい湿気と臭気が漏れだしてきた。この中はさらにひどいだろう。それにも関らず、くるみは吸い寄せられるようにソックスの口へと歩み出していた。それは正しい人間の道に背く行為、そう理性の残り香が叫ぶが、足は勝手に動き出す。
 中に潜り込んでみると、そこは予想以上のかぐわしさだった。
(ああ、ここがすばるの中)
 くるみは、自分の肺の空気をそれで満たすべく、胸いっぱいに息を吸い込む。気絶しそうな足臭の中、外も中もすばるのものに置き換わる。全身をうつぶせにし、繊維の床に自分の身体をなすりつける。
「ああ、すばる、すばるあっ」
<ずいぶんお気に召してくれたみたいですね>
 すばる様の声がソックスの中にこだまし、くるみがハッと我に帰った時には、入口からすばるの大きな目が自分を覗き込んでいた。くるみ二人分くらいはあるすばるの瞳が、くりくりと楽しそうに、あどけなく動いていた。
 視界がめまぐるしく動く。くるみはころころと靴下の中を転がった。気がついたときには、くるみは白いトンネルの行き止まりにいた。白い繊維が黒ずんでいる。けほっけほっ。入口とは比にならないくらいの激臭がくるみを襲う。
 再び、視界が回転し始めた。
 天井と床と壁面の区別が消えた。くるみの身体が嵐に巻き込まれたかのようにあちこち跳ねまわり、全身を靴下の内側に打ち付ける。口の中を切った。「シェイクシェイクっ」という弾んだ声から、すばる様が靴下の足首部分を握って上下に振っていることがわかった。
 おえええっ。すばるの無慈悲なシェイクが終わった後、くるみは涙と胃液をその場に垂れ流した。口の中を切っていた。
<くーちゃん? どう、私の靴下の中? 私の匂いでいっぱいで、幸せなんでしょ?>
「すばる様ぁぁぁ。出してください。ショーツに、あのショーツに戻してください」
 くるみは、姿の見えないすばる様へ……というよりは、自分を包むこのソックスに対して哀訴した。
<えー? この靴下の中に入っていったのはご自分ですよね? それに、私の決定に文句あるんですか?>
「い、いえ……ない、です」
<なんだか、気に入らないなあ。決めた! くーちゃんは、ずっとここにいなさい! 餌もお水もあげないから! くーちゃんにとっては、ご褒美ですよね>
「え、え、ええっ」
 軽快なトーンで死刑判決を下し、すばるは足音を響かせてどこかへと去っていく。
<あーそうだ、ゲロとかお漏らしとかで私の靴下を汚したら承知しませんからね。私は、くーちゃんをそんなはしたないペットに育てた覚えはありませんから>
「待ってええええ! 行かないで、すばる様ぁぁ!」
 くるみの叫びはソックスの中に閉じ込められた。
「どうしよう。晩御飯までには、出して、くれるよね、きっと……」
 楽観的に考えようとするくるみだが、結論から言うと、すばる様はくるみを出すどころか食事も水もくるみに与えなかった。
 むわりとした空気がくるみを包む。足先の空間は汗が残っていて、もわりと蒸し暑い。
 くるみは、異臭と暑さからすばる様の口腔内で凌辱されたことを思い出し、それをネタに自慰を行った。

 *

 その後の靴下の小人生活は凄惨たるものだった。
 快楽に浸れていれば楽だったのかもしれないが、やがてそれは飽きる。飽きればそこには苦痛しかない。苦痛に慣れたころ、それは快楽へと転化される。その繰り返しが、永遠とも思える時間くるみを苛んだ。この牢獄はくるみにとって責めの緩急を知る一流の拷問吏となっていた。苦痛と快楽の境目がなくなるまで、この苛みは続くのだ。
 まずくるみは、粗相を許さない主人の言葉を思い出し、吐瀉物を必死に舌で舐めとろうとした。すばる様の汗の酸味と自分の胃液の苦味が混ざりあった屈辱の味だった。口の中がひりひりと痛む。
 しばらくソックスの中にいると、ふたたび性欲が首をもたげていたが、くるみは自慰でそれを発散することをこらえようとした。男性のそれほどではないが、女性も自慰後は性欲を減衰させてしまう。ここは、欲情できなくなってしまえば地獄だ。
 そこまでわかっていてもくるみは、三十分と我慢することもできなかったが。現実に対する認識がぼやけてくるのと反対に、性感はどんどん過敏なものとなっていた。素肌に靴下の粗い繊維がこすれるだけで濡れるようになっていた。
 さらにしばらく経つと、食欲をそそる匂いが靴下の底まで漂ってきた。いつのまにか夕食時になっていたのだろう、ハンバーグの匂いだった。くるみの腹が鳴った。
「すばる様、おなかが、おなかが空きました……」
 靴下ごしにいるはずのすばる様に空腹を訴えたが、反応はない。聞こえていないはずがなかった。ここがすばる様の部屋だということを思い出して、なぜ居間で食事をしていないのかに気づく。すばる様は、食べものの匂いを嗅がせて飢えたくるみを苦しめたいのだ。
 靴下の底を転がって空腹を紛らわそうとしていると、急に肉の匂いが強くなった。すばる様が、靴下の口近くにハンバーグのかけらをかざしたのだということは後で知った。
 濃厚な肉の匂いと靴下の臭いが混ざり合ってえもいわれぬ不快な香りが牢獄の中に充満し、くるみは再び吐いた。もう、胃の中には何も残っていなかった。透明な吐瀉物が暗く光っていた。
 さらにその数時間後、くるみは尿意を感じていた。何も口に入れてなくても出るものは出るのだろう。ダメ元ですばる様を呼んでみたが、もちろん返事はなかった。この刑の執行が終わるまでは、すばる様は声をかけてくれないのだろう。生理現象には抗えず、くるみはその場に排泄した。しみ込んだ部分は可能な限り舌できれいにした。
 自分の排泄物で靴下内部の臭気はどんどん混沌としたものとなっていき、それが余計にくるみの理性を削り取っていくこととなった。

 *

 睡眠。
 吐く。
 自慰。
 泣く。
 乾き。
 吐く。
 睡眠。
 自慰。
 吐く。
 自失。
 自慰。
 睡眠。
 自慰。
 睡眠。
 睡眠。
 自慰。
 自慰。
 自慰。
 睡眠。

 *

 くるみは、しばらくの間獣となっていた。
 狂ったような行為の合間合間にわずかな理性を取り戻しては、祈りを繰り返していた。
「すばる様、すばる様、すばる様、すばる様、すばる様……」
 自分だけの女神に捧げる祝詞の形式など知るわけもなかったので、ただ彼女の名前を呼ぶことで敬虔さを示そうとしていた。何に? 天に。すばる様に。すばる様はこうしてのたうちまわる自分の有様を、しかしなおもすばる様に対する信仰を忘れない自分の姿を、見守っているはずだった。無慈悲なのではない。これはすばる様が、虫のような哀れな自分に与えてくださった試練なのだ。虫けらから、すばる様にふさわしい従僕へと昇格するための!
 ……初めは、課された苦痛を紛らわすために考えた冗談だった。しかし、それも繰り返しているうちにそうとは思えなくなってくる。本当にそうなのか? そうではないのか? 帰依することだ。身も心も血の一滴まですばる様に捧げ、一体化することが、唯一苦しみから逃れる方法ではないのか。すばる様の答えはない。答えないのが神だからだ。
 祈りを繰り返すうちに、くるみは無心の境地へと達する。
 なぜ自分が生きているのか。
 なぜ生かされているのか。
 そんな苦悩への解答を探す。
 人の身では見つかるはずのないものを。
 そして、見つける。

 *

 そして現在に至る。
 臭気の薄い靴下の中腹部分――かかとの窪みでわずかな正気を総動員していた。
(ワーデン、ワーデン、ワーデン)
<なんだい>
 正気を失わずに済んだ理由に、ワーデンの存在があった。何でもいいから話せる相手が必要だった。この世界にただ一人取り残されてないと知るために。
(遺言を)
 念じるだけでも話が通じるとわかって、くるみはワーデンに対しては直接喋ることはしなくなった。喉から声がもう出ないのだ。
(私には後輩がいた。たぶん唯一の友人でもある。名前は奥羽すばる。私があげたハンカチを一年の間大事に使ったかわいいやつだ。いつでも元気溌剌で、向こう見ず。私とは正反対だ。でも、知っている。あいつは他人と接することにいつでも怯えている。私と同じだ。傲慢かもしれない。守ってあげたいとすら思っていた)
 告白は続く。まるで、もはや実在しない人間のことを語るように。
(それと同じように、後輩も私のことを守ろうと思っていたのかもしれない。私は演劇部からは浮いていた。演技が上手なわけでもないのに我ばかりが強くて、うとまれ、孤独になった。次第に部室には足を運ばなくなった。私は退部届を出した。後輩と出会ったのはその矢先のことだったよ)
 ワーデンからの反応はない。黙って聞き入っているのか、相手にしていないのかはわからない。それはくるみにはどうでもいいことだった。
(後輩はな? かわいいんだ。あいつの誕生日、学年の違うあいつが私のクラスにまで来てやたら絡んでくるんだ。何か言いたそうだけど、何も言わずにね。私はどうしたかって? 知らんぷりして送ってやったよ。あいつが帰るころには、届いているようにね)
<まるでのろけ話だ>
(そうかな)
 照れたように笑った。
 これは、けっしてこの大きさになってから抱いた感情ではなかった。ずっと前から、誰にも言わずに宝物のように大切に抱えていたものだった。この思いだけは、けっして捨てたくない。

 *
 
<くーちゃん、生きてます?>
 あまりに久しぶりに、すばる様の声が響いた。
(すばる様?!)
 叫びはかすれた喉では声にならない。ここに入れられた時と同じように、世界が三六〇度回転し、今度は逆向きに転がり落ちる。靴下の坂を転がり落ちた先は肌色の丘だ。しかし、いつもの手のひらの上ではないことはすぐにわかった。背後にはピンクの畳。ソックスの中と比べればかわいいものだったが、それと似たような体臭を帯びていた。肉の坂が前方には広がっている。その脇から、桃色の大地が垣間見える。
 ずずず。地表を鳴動させながら、桃色の大地がせりあがり、山となってそそり立つ。かつて衣服を身に着けていた時の古い記憶に従えば、それはキャミソールというものだった。山の頂上には、すばる様のご尊顔がそびえている。
 くるみは、足指の先に立たされていた。
 すばる様がやわらかい体を折り曲げて、顔をぐんぐんと近づけてくる。口を開き、そこから絨毯のような舌がくるみのいる足の上に垂らされる。珠になったよだれが、足指の隙間に落ちて溜まる。わずかな量だったが、それでもくるみにとっては一リットルにはなる。
 くるみは喜び、天の恵みへと飛びついた。聖なる蜜溜まりに顔をつけ、犬のように貪る。乾いた体にすばる様の唾液が浸透していく。自分を構成する水分がすばる様のモノに置き換わっていくことを実感し、くるみは歓喜に打ち震えていた。
(ああ、それで)
 いつのまにかたっぷりとあったはずの蜜は消えていた。くるみはその残滓を求めて、ちろりちろりと足指の間に舌を這わせる。そうすると、ぶるりと足が震え、ふるい落とされそうになるがそこには汗がじわりとにじみ出るので、それを舐める。塩辛かったが、お蜜が甘ったるかったのと塩分が足りなかったのでかえってちょうどよかった。水分に続き、塩分がすばる様のものへと置き換わる。
 蜜と潮を満足するまでしゃぶりつくして頭上を見上げると、すばる様はくるみを何人も載せられそうなクリーム色の円盤――クラッカーを口に運び、バリボリと音を立てて破砕していた。唇がうごめき、頬が膨らむ。
 ドン! サッカーボール大の何かがくるみのそばに落ちた。クラッカーの破片だった。
 一枚の三分の一を手に残し、ごくり、と音を立てて飲み込む。喉を通過するクラッカーのなれの果てを、くるみは確かに目にした。胸が高鳴った。
 すばる様は残りのクラッカーも口に含み、咀嚼する。十分に噛み砕いたところで、口を広げ、舌を出す。クラッカーの残骸の山が、鮮やかなピンクの舌の上に乗っていた。
『登って来い』
 そう言っているように見えた。
 くるみは足の上を駆け、ジャンプして伸ばされた舌先へと飛びついた。埃ほどの重さしかない小さなくるみの身体は、いとも簡単に舌のビロードへと張り付いた。
 舌がくるみを乗せたまま徐々に持ちあがり、下り坂を作るが唾液によって接着されたくるみの身体は転がり落ちたりはしない。すばる様の口の中がはっきりと見える。ぐずぐずに溶けたクラッカー、門扉のような白い歯、波打つ舌の大地、そしてその奥にたたえる深淵。時折吹きつけてくる、すばる様の息吹という名の生暖かい風。この威容を持つ生ける洞窟が、ひとりの少女の一器官にしか過ぎないという事実がくるみを興奮させていた。
 くるみは舌から体を引きはがし、ぬるりとした地面に足を取られながら奥へと進んでいく。クラッカーを通り過ぎ、歯の門をくぐりぬけ、舌の付け根にまでたどりつく。
 目の前には、文字通り全てを飲み込む暗闇の入口があった。喉の数歩前に、くるみは横たわる。味蕾のざらつきが素肌を愛撫する。

(はやく食べてくれないかな)
 
 くるみは目を閉じてその瞬間を待つ。こんな小さな自分でも気管に詰まればすばる様を苦しめてしまうだろう。すばる様の舌に導いてほしかった。クラッカーが喉を通過するのを見たとき、受けた感情は「うらやましい」だった。自分が苦行の末に見つけた答えが、そこにあったからだ。完全なる一体化の願望。彼女はとうに狂っていた。それを彼女自身も理解していた。しかし、正しいと確信もしていた。
 しかし、くるみを出迎えたのはせき込むような突風と空間の傾き。積ったクラッカーまで吹き飛ばされる。
(旅立ちの前には、腹ごしらえをしろってこと?)
 すばる様からの声はなかった。くるみを口に入れているから、しゃべれないのだ。
 無言ですばる様へ礼を捧げ、ふやけたクラッカーを手ですくい、むしゃぶりつく。たとえようもなく美味だった。四十時間もの間飢えに苦しんでいたからというだけではけしてない、とくるみは信じている。唾液でぐちゃぐちゃのクラッカーの山はが、すばる様の汚れを掃除しているみたいで楽しかった。
 三分の一に砕かれたクラッカーのさらに三分の一だけを食べたところで、ふたたび舌に寝転がる。ぐっしょりとした湿り気を背中に感じて気持ちいい。
 舌先が、ゆっくりと折り畳まれるのが見えた。飲み込む動作だ。口が閉じ、光が差し込まなくなり完全な暗闇となる。くるみの身体は分泌された唾の固まりと食べ残しのクラッカーに包まれる。くるみは息を止め、目を閉じる。怖くなどなかった。
(くるみは幸せものです、すばる様)
 こうして愛しい人の舌と唾液に抱かれて、喉を通過した先では温かい胃液に抱かれて眠るのだ。これほど安らかな死出があるだろうか?
 だが、くるみの期待したとおりにはならなかった。
 舌とは違う柔らかい感触を体中に感じた後、蛍光灯の光が、くるみの瞼を刺した。
(え?)
 くるみは起きあがり、目を開く。どことなく心配そうなすばる様の顔が、くるみをのぞき込んでいる。
「な、なんで」
 くるみは驚愕に目を見開いた。
 唾液とクラッカーの残骸の一部に覆われて、くるみは懐かしき手のひらの上に戻っていた。
「何で私を食べてくれなかったんですか!」
 意味が分からない。くるみはずっと、すばる様に食されることを待ち望んでいたのに。
<私は……>
 すばる様は、くるみの小さな身体がまとう迫力にひるんでいた。
「だって。すばる様は私のことをこれほど愛してくれているのに、私はそれに答えられない。こんなちっちゃな身体じゃ、おっきなすばる様を抱くこともできない。私は、なにもできない」
 すばる様はくるみの身体をぺろりと舐め、全身のクラッカーを取ってやったあと立ち上がり、彼女をテーブルの上に置く。
「私は、小さなくーちゃんが好きだよ。そばにいるだけで、私は幸せになれる。それでいいんじゃないかな」
「くるみが嫌なんですっ。日々のうのうと暮らしているだけでは満足できないんです。何かしたいんです。そして、これほど愛されているのに満足できない私がすごく嫌なんです」
 くるみは滂沱していた。
「私は、いつかすばる様が私を食べてくれるものだと思ってた。私を取り込むために、自分の味を付けているのだと思ってた。私をあなたに近づけるために、あなたの匂いを、蜜を塗りたくってくださっているのかと思ってた。だから、ただ愛されるだけの惨めな日々を送れていたのに。それなのに、すばる様、あなたは!」
 狂人の理屈だったが、理屈には違いなかった。狂った状況下で人間としての尊厳を破壊しつくされ、奪い尽くされたくるみが生み出した、新たな存在意義がその歪んだ理性の源だった。
「ねえ、せめて、私を元の大きさに戻してください! これは、私を対等に扱えという意味ではなく、あなたを愛せないからです!」
 何かが爆発した。
 三メートル以上の距離を吹き飛ばされて、少なくともくるみはそう信じていた。
 視界の両端に、二頭の肌色の大蛇が横たわっていた。それはすばる様の中指と薬指で、爆発だと思ったのはすばる様の平手が自分のすぐそばに思い切り振りおろされただけのことだった。かなり吹き飛ばされた気がするのに、それでもすばる様の手の中からは逃れられていない。もう少し狙いが狂っていたら、叩き潰された蝿のように四肢と内臓をバラバラにして即死していただろう。
<私を批判するつもり? あなたは、ただ享受していればいいの>
 しかし、恐怖はさほどなかった。実感を得ることができなかったというのもあるが、すばる様に殺されること自体はもう覚悟がついていた。食べられるために生きているのだと思っていたから。
<元の大きさって? 五.四センチ?>
「ひ、一六二センチです!」
<くるみ、あなたはいくつかの勘違いしているわ。まず、食べるだの食べないだのという話。よく考えてみなさいな、これから食べるものにどれだけ私と近づけても無意味でしょう?>
「……」
 しかし、ではどこにくるみのゴールはあるというのだろう。そもそも、そんなものは用意してくれていないのか?
<第二に、あなたの元の身長は一六二センチなんかじゃありません。五センチ強よ>
「うそ」
<一六二って、私より大きいのよ。そんなことが、あると思う?>
 言われてみればおかしい。こんなに雄大なすばる様より自分が大きかったって、バカなことを言っている。
<あなたは、私のここから産まれたの>
 すばる様は、テーブルの岸壁の下を指差した。
「私がそこから……?」
<そう。くーちゃんは、五.四センチの身体でここから出てきたの。一週間前にね。だから、私はくーちゃんのお母さんでもあるのよ>
「え、でも私、じゅうな……」
 はあっ。
 悩ましい吐息が浴びせられる。意識がぽうっとし、何も考えられなくなる。
<あなたが十七歳なら、くーちゃんを産んだ私はもっとおばさんのはずじゃない?>
「そっかぁ」
<そう。くーちゃんは私が産んで七日目なの>
 前提が狂っていることには、もちろん気づいていない。
<そして、あなたを食べるつもりはない。だって、たったそれだけのためにいろいろと準備するって、おかしいでしょ? むしろ、食べないからこそ、私はくるみに自分の匂いをつけていた。それは、どういうことだかわかる?>
「……?」
<生きながら、くるみを私の一部にするためよ>
「生きながら……?」
<あなたが、自分の存在価値について思い悩む必要はないの。意味はすべて私が与える。あなたはそれをただ黙って受け取っていればいい。あなたは、私の道具(モノ)なんだから>
 くるみは、はるかな高みから慈母の笑みを向けた。もう吐息も愛撫も必要なかった。その笑顔だけで、くるみの心は音を立てて溶けていく。正気が狂気へと混ざり合い、区別がつかなくなっていく。
 
 *

 巨大なクレヴァスの手前の、ぷっくりとした桃色の膨らみに座らされていた。あまりに大きすぎて始めわからなかったが、それはすばる様のクリトリスだった。背後には、すすきの原っぱのようにヘアが生え広がっている。
 すばる様は、くるみを手に乗せてベッドへと運んだ。すばる様は上も下もすべて脱ぎ、全裸へとなった。腕時計――ハンドトゥハンドを残して。ベッドの上に足を開いて座り、秘所の手前へとくるみを置いた。
 もちろん、道具でしかないくるみの前で裸体をさらすことに恥じらいはない。見られている、という感覚すらそもそもなかった。
<そこがくーちゃんの生まれた場所よ>
「はぁぁ、おっきい」
 直径十メートルほどの割れ目は、くるみを何人もいっぺんに出産できそうなものだった。
<くるみは、自分が生まれた時のことをよく思い出せないみたいだから、これから教えてあげる>
 降りてきた人指し指の頭が、眼前の巨大な亀裂につぷ、という音を立てて飲み込まれた。くちゅ、くちゅと猥らな水音を立てて指が上下にピストン運動を繰り返す。ただのオナニー以上に、それはいやらしい光景だった。だんだんと、気温が高くなっている気がした。肌色の大地に汗の珠が浮かんでいた。
 濡れた指が粘膜の糸を空に架けながら引き抜かれ、見守っていたくるみへと迫り、押し倒した。ぐりぐり。指に付着した膣液が、胸に、お腹に、顔に、尻に塗りたくられる。粘性の高い愛液が顔を覆い、くるみは危うく地上でおぼれかけた。
<ねぇ、大丈夫そう?>
 くるみは、なんとなくこれからされることを理解した。
「私、その……そこに入れられちゃうんですか?」
<うん>
 分泌液を全身に塗られたのは、いきなり入ってびっくりしないようにだろう。お風呂につかる前に、体に湯をかけるようなものだ。
「そこ、すばる様の口のなかよりも気持ちいい?」
<きっとね>
 おずおずと、すばる様の大陰唇へと近づいていく。先ほどすばる様の指を飲み込んだそれは今はぴっちりと閉じられていて、自力では進入できそうになかった。来訪者が待ちきれないかのように、時折ひくひくと震えている。
「ねえすばる様、するんならはやくぅ」
<……待って。その大きさじゃまだ大きすぎるかも>
 その直後、眩暈を感じてその場に膝をつく。周囲の光景が、どんどん育っていく。むわりとした熱気がますます強くなる。
 ――また、小さくなっている!
 周囲の巨大化が終わり、あたりを見渡すと恥丘は頂上にたどり着くだけでも苦労しそうな文字通りの小さな丘となり、背の高い草むらでしかなかった性毛は樹高数十メートルの黒い樹が密生する森と化していた。はだしの裏はやけどしそうなくらいに熱い。火照った肌の上に浮かぶ汗の珠はくるみが泳げそうなほど広いプールだ。ごう、ごうとした空気の流れを、体で、耳で感じ取れる。
<大丈夫? くるみ。私のことわかる?>
 雷鳴のようなすばる様の声がとどろく。彼女が喋るたびに、くるみのいる空間が振動する。
 ごおおおう。
 空気がかき混ぜられる轟音がする。しかしそれは、エアーズ・ロックのようにそびえるすばる様の身体が若干かがんだだけにすぎない。
 数百メートル真上に見える、雲のようにぼんやりとしたシルエットがおそらくすばる様の顔なのだろう。
 風が起こる。大気を切り裂きながら、すばる様の指が隕石のようにくるみへと迫ってきたのだ。くるみは尻もちをついた。怯えたのではなくて、圧縮された空気に押されたのだ。指の関節一つ分でも、くるみにとっては巨大客船一つ分に相当する。指紋は指紋との間に、くるみを納められそうなぐらい広大だ。その爪は、裏側を上に向ければちょうどいいテラスにすらなるだろう。
 シルエットの輪郭が動く。おそらく、何かしゃべっているのだろうが何も聞こえない。
<この、砂粒みたいなのがくるみだよね。もう、くるみがどんな顔してるかもわからないや>
 と思った直後、大音響がこだましびりびりとあたりが震える。あまりの距離とスケールの違いのせいで、声が遅れて届いていた。
<いま、さっきの十分の一だから、〇.一センチ。たったの一ミリだね。うっかり息を吸ったら、そのまま口の中に吸い込んじゃって、気付かないまま飲み込んじゃいそう>
 一ミリ。千分の一。虫が怪獣に見えるサイズ。千倍のすばる。一キロメートル。
 そのセリフだけで、くるみはもう濡れてしまう。もし、そうしてくれればどれだけいいだろうか。もちろん、それはすばる様の望むところではないのだが。
 興奮に耐えきれず、くるみはすばる様に――自分のいるこの世界全体に願った。
「ね、ねえ、すばる様……よかったら、もっと、わたしのこと、ちっちゃくしてくれませんか?」
<えっ?>
 驚いたのか、さっきより一段階トーンの大きい声の槍が飛んでくる。声に吹き飛ばされて、くるみはその場に転がる。
「その……もっと、大きなすばる様を感じたいんです」
 もう小さくなることを恐れたりはしない。
 この場所は最高だった。大気も、空も、地面も、世界がすべてすばる様だ。五センチ、一センチ、一ミリ。小さくなるにつれて、淫蕩な空気は強まっていった。これ以上小さくなったら、どれぐらい自分がおかしくなってしまうのか、知りたくて仕方なかった。世界は、すばる様はどう見える? 一万分の一になったら? 百万分の一になったら? 顕微鏡ですら見つけることのできない大きさになってしまったら?
<だめよ>
 すばる様は険しい声色で返した。
<これ以上小さくなったら、私ほんとうにくるみがどこにいるかわからなくなるもの>
「ちぇ……っ」
 遠いすばる様のシルエットが、一瞬、ますます遠くなる。
<ど、どうしたの>
 また、何もないところで転んでいた。
「へへ……なんだか、めまいが」
 くるみは、人間がいるには最悪の環境にいた。全裸で、興奮状態の代謝が活発な少女の肌に限りなく密着しているのだ。気温も湿度も不快度もこの国の真夏日のそれの比ではなかった。
<ちょっと……そういうことは早く言ってよ>
「あはは。はやく……はやくいれてください」
 視界がだんだんぼやけてくる。相変わらずすばる様の表情はわからなかったが、心配しているらしいことはわかって、なぜだかほほえましい気分になった。

(自分でこう仕向けておいて、まったく後輩はこれだから)
(……かわいい)
(ふふっ)

<これにつかまって>
 目の前に、栗色の細長い柱が降りてきた。細いと言っても、くるみが両腕を回してぎりぎり抱えられるくらいだ。すばる様の髪の毛だった。
<いくよ>
 くるみがしがみついたのを確認して、恥丘上空へと運ぶ。すばる様の陰裂が、餌食を待ちかねてくちくちと蠢いていた。
 すばる様の左手指が膣口に押し当てられ、小陰唇をゆっくりと開いていく。閉じたクレヴァスが直径十メートルほどの巨大な二本の柱によって直径三百メートルほどの乾いた湖のような大空洞へと姿を変えるのは圧巻で、まるで自然現象だった。
 本当は、一般に言う大自然の景観というのはすばる様のような超巨大な少女の身体の一部なのではないだろうか。開発された都市に立てられる高層ビルはそんな少女を貫くための人工のペニスだ。少女たちの雄大さに比べれば、そんなものはあまりにも短小だが。そんな妄想すら浮かべた。
 髪の毛につかまさせられたまま、ゆっくりと高度は下がり、くるみの身体は陰唇の中に隠れた。内側に広がる無数の襞が山脈のようだった。そこに溜まる愛液は山地を流れる河川だ。
 どぷん。くるみのつかまっている髪の毛の先が愛液の滴に触れる。直径三メートルほどの水球は、髪の毛にとってはなんてことないが塵のように小さいくるみを捉えるには十分だった。髪はくるみの手から離れ、彼女を谷底に置き去りにしてどんどん上昇していく。もう戻れはしない。それと同時に、地響きを立てながら陰唇内部が狭くなっていく。すばる様が指を離したのだ。水球は転がり、すばる様のヴァギナの奥深くへと沈んでいく。

「食べられちゃったね。私のえっちなところに」
 陰唇が閉じ、くるみの姿は完全に見えなくなったのを見届け、すばる様は自分の恥部をいとおしそうに撫でた。
「産みなおしてあげる」

 *

 自分の手すら見ることもできない暗闇だった。もっとも、明かりがあっても自分の手を見ることはできないだろう。それくらい、全身に膣内部の襞が密着していた。
 上か下か、というだけで状況はすばる様の口に放り込まれたときに近い。違うのは膣は自分の意思で動かせないため、帰り道は保障されていないということだった。空気は意外とあるようで、窒息死することはなさそうだ。自分を一ミリまで小さくしたのは、そういう考えがあったのかもしれない。
 もし一生ここに閉じ込められるのならそれもいいかと思った。
 くるみは、もし食べられないとしたら、すばる様の眼ではとらえられないほど小さく縮んで、すばる様のお体に棲み、垢を食べて暮らす微生物になりたいと思った。誰よりも近くですばる様へ仕えられる。どんな大きな人間にもできないことだ。
 この砂粒のように小さな体では、少女の最も敏感な部分でいくら奉仕したところですばる様はおそらく何も感じないだろう。性奴隷にすらなれないが、それでいい。ラブ・ジュースと恥垢で飢えをしのぐのだ。すばる様は、きめ細かい所まできれいになった自分の膣を見て、くるみのことを思い出す。それでOKなのだ。

 くるみの身体は襞の蠕動によってどこか奥へと運ばれていた。敏感になった全身を襞に愛撫され、くるみは移動の過程で三度ほど果てた。フェラチオされるおちんちんの感覚はこんなものなのかな、と思った。
 全身がひりひりする。膣は消毒のために膣液は強酸性になっているらしい。自分の数十分の一かは融かされ、すばる様のものとなってしまったのだろう。そう空想すると気持ちがいい。
 おちんちんで思い当ってしまったことが一つある。微生物生活を送るにあたって、すばる様が男と寝たらこの安寧の地にシールド機械のような巨大でグロテスクなものが突貫してくるのだろう。それを想像し、くるみは顔をしかめる。すばる様がこの場所を自分だけのものにしてくれることを祈るしかない。巨大なおちんちんにすりつぶされるようなみじめな最期はいやだった。自分を殺していいのはすばる様だけだ。
 ああ、それにしてもここはなんて気持ちいい場所なんだろう。血液の脈動する音。温かさ。湿気。同化の理想。安心感。もう、外には出たくない。産まれ直したくない。ずっと、おかあさんのおなかの中にいたい。
 そんな夢想は、突然の感覚の変化によって中断される。
 何か広大な空間に放り出されていた。俗にGスポットと呼ばれる場所かもしれない。
 ひっく。ひっく。
 粘液まみれで重たい体を引きずり、相変わらずの真っ暗やみの中を進んでいくと、誰かがすすり泣く声が聞こえてきた。
「誰かいるの?」
 そんなはずはない。少女の下腹部にそう何人も人間が閉じ込められていてたまるものか。
 気配のする方向へと歩いていくと、そこにいたのは自分と同じ少女だった。姿かたちは見えないが、それとくるみは確信した。
「ねえ、どうしたの……」
 声をかけようとして、確信のレベルはもう一段階繰り上がる。

 幼子のように泣きじゃくっていたのは、奥羽すばるその人だ。
 
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