戻る 前へ 10.こうして部屋で寝転んでいるとまるで死ぬのを待ってるみたい ゴーストタウンを訪れた通常サイズ――つまりこの街にとっては一五〇メートルのニニアンが目にしたものは、小さなビルというビルが根本からなぎ倒され、瓦礫の山となっている光景だった。 「ああニニアン、来ていたの。もうすぐ終わるから少し待ってて」 同じく百倍のワーデンは背を向けたままそう答えた。ストラップシューズに包まれた彼の足が家屋を軽く蹴ると、張りぼてが倒れるみたいに簡単に崩壊する。解体業者は失業するだろう。 握りつぶさないように片手でビルを基礎ごと引き抜き、もう片方の手の上で振る。すると、屋上や窓から百分の一のこびとたちがぽろぽろとこぼれるので、それを口に放り込む。丸飲みしてもいいのだが、今回はそういう気分ではない。舌を使って歯の上へと誘導し、ひと思いに噛みつぶす。小さすぎて、噛むまでが結構難しい。 ぷちぷちと肉が弾け、血がじわりと滲む感触。敬愛していた管理人が文字通り牙を剥いてきたことに対する恐怖、年端のゆかない子供に食べ物扱いされる屈辱、そして幾ばくかの恍惚、そんな味だった。 「ニニアンもどう? 活きがいいよ」 ワーデンはニニアンに指でつまんだ人間を差し出す。血に濡れた歯を見せて笑っていた。 「ではご相伴に預かりますか」 ワーデンが指の間のそれを口に含んだかと思うと、ニニアンの肩を掴んで口づける。ニニアンが驚いている間にも、柔らかい唇の下をワーデンの舌――と、それに乗せられたこびとが通過していた。 舌が抜かれ、二人の唇の間に粘膜の糸ができると同時にニニアンは唾とこびとを飲み込んでいた。こびとはあっと言う間に喉を通過していく。胸がざわつくような感覚だった。生きながら食われる人間というのはどう感じているのか、ニニアンは知ることができない。 「自分を取り巻く空気、環境、世界に意思があると想像してごらん」 彼は確かそう言っていた。彼も誰かに飲み込まれたことがあるのだろうか。だとすれば彼の趣味はそのときに開発されたのかもしれない。 しかし、人を殺すのは好きだ。人の命が消えるのを感じるのは好きだ。何も知らない哀れな通常人類を憐れむのが好きだ。超越した存在であることを自覚できる瞬間が一番好きだ。 ワーデンはただ己の快楽のためだけに気ままな破壊を行っているわけではない。月に一度、街とその住人をリセットする必要があった。あまり長く住人の記憶を蓄積させると、彼らが成長し、街の維持コストがよけいにかかってしまう。そうなる前になんらかの手段で殺し、再生させる。未来の可能性が奪われている住人は死ぬことすらできないので、肉体と精神の復元は容易だ。それはこの街にも言える。翌日から、ワーデンは何食わぬ顔で聖人君子としてふるまうわけだ。 まれに、記憶が消去されずワーデンに街ごと蹂躙されたことを覚えているものもいる。そう言った人間をワーデンは見込みありとし、街ではなく自分の下着に住まわせる。そうして途切れない感情を食らうのだ。 この世のありとあらゆるものを経験することになるプレイヤーは、ワーデンのように特殊な性癖に目覚めるものも多い(ニニアンはそういうのをもう一人知っていた。ハンドトゥハンドのオリジナルの現在の所持者だ)。 ニニアンにはそういう彼のフェティシズムはいまいち理解できない。こびとをいたぶるのはまだしも街を破壊して回るのは何が楽しいのだろう。彼は「クラッシュって言うんだよ」と妙に誇らしげに説明していたがまったくわからない。知りたくもない。 ともあれ、彼の笑顔を見ることができるのはリセットが行われる日だけというのは確かだった。 ワーデンは次の遊びを始めていた。スカートを脱ぎ、そのへんのビルに乗せる。ビルは布の重みだけで崩れていった。 女児用のショーツから、勃起した肉棒が現れた。その上にぱらぱらとこびとを振りかける。バスのようなサイズのそれは、何人ひとを乗せようがびくともしない。そのまましごきでもするのかな、と傍観していたらワーデンはニニアンへとそれを向けて近づいてくる。 「……」 ニニアンは無言で、ワーデンの少女の体躯と顔には似合わない怒張したそれを掴む。指の下で何かがつぶれたが、知ったことではなかった。 * ちょっと、といいつつワーデンの行為が終わるまでには二時間待たされた。 ビルに腰掛けて待とうとしたところ、ちょうどいい高さのモノがない上に尻を乗せただけでがらがらと崩れてしまうためやむなく十五センチ(十五メートル)にまで小さくなってから座った。 「お待たせ」 「まあ、用という用はないんですがねえ」 ワーデンはいつのまにか全裸になっている。シャツの上からではわからないが、胸がわずかに膨らんでいる。 「彼女、楽しくハンドトゥハンドを使っているみたいだね」 「みたいですねえ」 「プレイヤーの素質、あると思う? かなりの心を捧げたみたいだけど」 「願いを叶える人間は二通りいまして。願いを叶えたあと、喪失間におそわれる人間とそこで満足せず次の願いを見つけられる人間と。プレイヤーになりやすいのは前者です。夢を失ったという事実を受け止められず、グッズに魂を費やし続ける」 「奥羽すばるはどちらだと?」 「前者ですね」 「見込みありか」 「恋が永遠だと信じ込んだりして」 「永遠のしっぽすらつかめない人間ごときが」 「そもそも奪い続けるだけのものを」 「恋などとは呼ばないのだけど」 超越存在たちは廃墟の街に口から血を滴らせながら三日月の笑みを浮かべる。それが上位者特有の傲慢な笑みか、人間でいることを諦めた放棄者の自虐かは、彼らが一番よくわかっているだろう。 * すばるとくるみが言葉を交わすことは比較的少なくなった。その必要性が薄くなったことと、くるみの起きている時間が短くなったからだった。 乳首や股間の秘所と言った局部にすばるを乗せると、何も言わずにくるみは舌を這わせたりおなかや胸で愛撫したりしてくれる。完全に、従順な性奴隷と化していた。 くるみの背丈は五.四センチの昆虫サイズに戻っていた。一センチ以下ではすばるにとってあまりに物理的な刺激が乏しく物足りなくなったからである。 また、ご褒美の形が拡大から縮小へとシフトしたからでもあった。小さくすれば小さくするほど喜ぶのだ。奉仕が上手だったときは一.五センチに、最高だったなら一ミリへと縮めた。そんな大きさになってどうするのかというと、何もしないでただすばるの息吹を感じているだけでいいのだという。その状態でクリトリスの前に置いてあげると、彼女にとっては巨大にそびえ立つ山のようなそれに登り始める。見ていてつい体をよじって笑いたくなってしまうが、くるみが無事ではすまないのでじっとこらえる。 ショーツの中に入れてあげたこともあった。布団としてではない。中央の、薄汚れた部分に芥子粒のようなくるみを乗せて、そのまま穿くのだ。大迫力だろう。ちょうどクロッチの部分に収まるのでつぶれはしない。愛しい人をナプキンにしていた。ドキドキはするが不安でしかたなくなるので、あまり長い間そのまま穿き続けたりはしない。あくまでご褒美でしかなかった。 そうやって、奉仕をすませるとすぐにくるみは眠りにつく。彼女が起きるのは『お仕事』と食事と排泄のときだけだ。 <くーちゃん、くるみちゃん> そう名前を呼んであげると、どんなに深く眠っていても目をこすりながら起きあがる。 「なんですかすばる様? おつとめですか?」 <お食事だよ。寝ながらおなか鳴らしてたよ> くるみは赤面する。 「一、二、三……ああ、一日が終わるんですね」 くるみは昼夜の判別を食事の回数でしていた。実際には一日四度与えているので、ほんの少しずつズレていたのだがすばるはそれを訂正しなかった。教えたところで意味などないだろう。くるみは時計で時刻を知っても、もう今一つピンと来ないようになっていた。今が朝の九時なのか、夜の九時なのか区別ができないのだ。そのうち、朝や夜、一日の概念もくるみの中から消えるだろう。蛍光灯の照明の下で一日十六時間眠るというおよそ人間らしくない生活サイクルのたまものだった。くるみは時間すら、すばるに奪われようとしていた。 「ほうれんそう、きらーい」 ぷい、とくるみはすばるの指に乗せられた食事からそっぽを向いた。くるみの日々の食事はすばるが日々食べているものの切れ端を与えている。 <だだをこねるんじゃありません> 「んーっ」 くるみの今の精神年齢は小学生ぐらいだろうか。体の小ささが心に影響を与えているのか、激しい精神的ストレスが幼児退行を促したのかはわからない。 * すばるはくるみの寝床を靴下にしてから、学校には行かなくなっていた。学校には病欠と言うことにしているが、いつまでごまかせるかはわからなかった。外にも出ていない。冷蔵庫に食料が買いだめしてあったのでそれでどうにか食いつないでいる。 くるみから目を離せないという事情と、一日おきにチャイムとノックを激しく鳴らしてくる人物の存在がその理由だった。警察に通報しようかとも思ったが、何かのきっかけでくるみの存在が明るみに出ないとも限らない。チェーンをおろしているので侵入される心配はないし、十分も待てばあきらめて消えてくれるので今のところは問題はないのだが、くるみが露骨に怯えるのでやめてほしかった。時には泣き出すこともある。鍵を破る手段を用意してきたら、そのときは『非常手段』の使用も辞さないつもりでいた。 震えるくるみを胸元にそっと寄せて心音を聴かせてやると彼女は安心して、ほっこりとした顔で眠る。幼児というより、これでは赤ん坊だ。そのあどけない様子を見る機会ができる点では、すばるはその人物に感謝しないでもないが、それは自分自身でもできることだった。というか、そうしていた。 理由を与えてはいけない。できるだけ、理不尽なタイミングで握りこぶしをくるみのそばに振りおろす。別に踵でもなんでもいい。くるみの手足や頭や胸や臓器や骨をかんたんに薄切りのハムよりも平べったくできるほどの質量を、見せつけてやればいいのだ。そうして、怖がらせてから抱きしめてやる。大丈夫。私が守ってあげる。 私だけが、あなたを守れる。何も心配いらない。 俯瞰するまでもない、マッチポンプとも言えないくだらないごっこ遊び。 だけど、愚かなくるみには区別はつかない。だって、くるみはすばるの手のひらの外の世界を知らない虫だもの。くるみにとっての災害の脅威を演じることも、慈愛の女神としてふるまうことも、赤ん坊に物語を読み聞かせることぐらいにはたやすいことだ。そうやって、今のくるみを作り上げてきたのだから。 そっとくるみの体をあのバスケットに降ろし、ショーツの掛け布団を乗せてやる。幸せそうな寝顔を見ているとこっちまで温かい気分になってくる。子作りをしたことはないけど、子を持つ母親というのはこういう気分なのだろうか。 「ううーん……」 そんなことをぼんやりと考えていると、早くもくるみが目を覚ました。くるみの眠りはいつも浅い。彼女はぐっすり眠っているつもりらしいのだけど。 「おかあ、さん……?」 くるみは開ききっていない目ですばるを見上げ、ふやけた声でそう呼んだ。 「私はここにいるよ」 お母さん。あらゆる意味で遠い呼び名だった。しかし、訂正しない。 「お母さん、お父さんはいないの? お母さんはいるのに」 無垢な問いにすばるは笑う。 「あなたのお父さんはね、もういないの」 「……そっかあ」 「お父さんは、私の先輩だった。すっごいかっこいい人だったのよ」 すばるは携帯を取り出し、くるみの目の前に巨大スクリーンのような画面を晒す。制服姿の先輩――くるみの写真があった。隣には、すばるも立っている。誰かに撮ってもらったのだろう。 「女の人じゃん」 くるみは、写真の人物をかつての自分自身だと認識できていない。ここ数日鏡を見ていないので自分の顔を忘れているのももちろん、すばるの隣に立つ巨大な人間とすばるに飼われる卑小な自分が同じ存在なのだという発想に至れない。 「そうだよ。女の子なの」 「知ってるよ、女の人と女の人の間じゃ子供できないって」 「できるわ。愛があれば」 「愛」 すばるはバスケットを持ち上げて、ベッドの上に横たわり、自分の腹の上に乗せた。くるみが落ちないようにバスケットの壁面にしがみついている。 「そう、私はあの人を愛していた。……愛して、いる」 すばるは天井で輝く蛍光灯を半目で見る。バスケットを逆さにし、おなかの上にくるみを転がす。くるみは転がり、へそのあたりで止まった。くすぐったい。 プラトニックな愛。恋したのが偶然ならば、愛するのは必然。与えるのが当然で、奪うのも自然だ。 (女に彼女とか言われても嬉しくなかろう) ただずっと一緒にいたいと思っていた。それだけでよかったはず。でも、想いは閉じ込められたまま膨張していった。同じ空気を吸っていただけで満足していたはずが、指先の温度がほしくなる。二の腕の肉の柔らかさを味わいたくなる。ほっそりとした腰を抱きしめたくなる。すべすべとした肌の感触を貪りたくなる。頭の先からつま先まで、その全てでも物足りない。 「そうして、生まれたのがくーちゃん、あなただもの」 先輩と交わり、くるみが産まれた。 恋したからには、愛さなければいけない。 恋したからには、報いなければいけない。 しあわせだよね? しあわせだよね。 「幸せだよね?」 「しあわせ!」 お腹の上のくるみが元気に応える。言葉にすれば嘘になるかもしれないとわかっていても、雲のような幸せは手で触れられることを確かめたくてしかたがなかった。幸せすぎて、夢みたいだったから。幸せすぎて、次の瞬間には死んでしまうのではないかとすら疑っていたから。 * そんな風に、すばるとくるみは二人して一日中寝転がり、優雅とも爛れているともつかない生活を送っていた。一緒に起きて、作ったごはんを一緒に食べて、一緒にお風呂に入り、一緒に寝る、そんなつまらない、くだらない生活を送っていた。それは恋人同士の生活であり、母と子であり、飼い主とペットであった。二人とも、この数日間制服には袖を通していない。互いに全裸のまま、一日を過ごしたことすらあった。 「あら」 冷蔵庫にたんまりとあった食料が底を付いたのは、くるみがすばるの家で生活を共にしはじめてちょうど一週間目のことだった。 「買い出しに行かないとなあ」 作り置きしていた麦茶と調味料しかない冷蔵庫の中身にため息をつき、ドアを閉める。 「おそとに行くの?」 「ええ、外の空気でも吸いましょ」 バスケットの中に手を差し伸べると慣れた調子でくるみが登ってくる。すこしくすぐったい。すばるはくるみをスカートのポケットに入れる。くるみは、秒速数メートルで動く足場にも習熟していた。 すっかり自らの小ささに影響ドアを開けた。 視界に火花が散る。 「へ」 すばるは一瞬で意識を失い、石の床にうつぶせに倒れ伏した。危うくふとももでくるみを押しつぶすところだった。それでも、くるみにとっては大地震にひとしい。 ふらふらになりながらポケットから這い出すと、そこには一人の女巨人がそびえ立っていた。 誰? この世界にいるのは、自分とすばるただ二人だと思っていたのに。 * 闖入者はすばる宅に押し入り、まず風呂とトイレを改めるが、そこには誰もいない。 居間の壁には、ポラロイドカメラで撮影したとおぼしきくるみの写真が無数に張り付けてあった。くるみが軟禁されてるのは間違いなかった。おかしいのは、その写真のディティールだ。巨大なスプーンや靴下の上に乗っていたり、すばるのモノであろう巨大な指が写っている。 (……合成?) すばるの部屋とおぼしきところに入る。一見ふつうの部屋だが、壁から伸びるひもに靴下が一足つるしてある。何の儀式だろうか。 ベッドシーツの上に何かゴミがある。目を近づけてみると、それはくるみやすばるの通っている学校の制服だった。しかし、数十分の一スケールの。つん、と不快なにおいが鼻を突く。制服はぐっしょりと粘性のある液体に塗れていた。生理を経験済みの彼女は、それが何に使われていたのかを理解し、顔をしかめる。 姉は見つからない。おかしな話だった。もう隠れられる場所はないはずだ。 手がかりを求め、学習机の引き出しを開く。鍵はかかっていない。一番上の質素な大学ノートを開くと、それはどうやら日記のようだった。日付は五日前からだ。 『○日 先輩を小さくした。五センチぐらいだ。すこし小さくし過ぎたかなと思う。握りつぶしてしまいそうだ。でも、かわいい! しばらくは先輩と一緒に暮らせると思うとどきどきする』 書き出しの文章がこれだった。彼女は自分の目を疑って何度も読み直すが、内容は変わらない。日記の途中で筆跡が若干乱れている。書きながら興奮したのだろう。 気を取り直して続きへ目を走らせる。 『洋式トイレに落ちたりお風呂につけたりすると取り乱しておもしろい。池に落ちた蜂みたい。先輩がお風呂でおしっこを漏らしたので思わず飲んじゃった。私は変態なのかもしれない。でも、先輩が私のすぐそばにいることが嬉しくてどうでもいい』 『○日 先輩の頭が悪くなってる。小さくなったせいなのかもしれない。なんというか、子供だ』 『先輩の妹と出会った。取り乱して先輩を落としてしまった。とても怖い思いをさせてしまったと思う。あのガキはもとから気に入らなかった。今度私の目の前に現れたらどうしてやろう?』 自分の名前が出てきてドキリとする。落とした、というのはどういうことだろうか。そういえば、あのときはコンタクトレンズでも探すように身を屈めていたが。 『ハンドトゥハンドの力でなんとか先輩を取り戻した。無事でよかった。今後も同じようなことが起こらないように命綱をつけた。小指サイズの先輩が私の小指に赤い糸でつながれている。とても楽しい』 写真、日記、そして小さな制服。三つの要素が彼女にある事実を突きつけていた。しかし、ありえない。こんなこと。現実には。 「ひとの日記を勝手に見るなんて感心しないなあ」 びくり、と身をこわばらせて首だけで振り返ると、すばるが立っていた。 「……後輩さん」 「私の名前は奥羽すばるよ。くるみを探しにきたの、妹ちゃん?」 奥羽すばるはいつまでたっても闖入者――妹のことを本名で呼ぼうとはしない。とるに足らない存在だと、言われているかのようだった。妹もそれに対抗して、すばるのことを名前では呼ばない。 後輩は指先を右手の悪趣味な腕時計に添えながら口だけで笑っている。妹は、彼女をすぐにでも殴りとばしてやりたかったが、体が金縛りにあったかのように動かない。 「どこに、お姉ちゃんを隠したの」 「知りたい?」 あっさりと自白する後輩の目は据わっていた。 「会わせてあげようか」 妹は様子がおかしいことに気づいた。さっきまで後輩の顎くらいだった自分の目線が、いつの間にか胸元ぐらいにまで落ち込んでいく。それを自覚した瞬間、視界がぐにゃりと揺らぎ始める。周囲から色が失われていく。 謎の言葉。ハンドトゥハンド。 「あ、あ」 「私は優しいから、殺したりはしないよ。飼ってあげる。毎日餌も水も、面倒見てあげるよ」 その言葉はいくつもの軌道から妹の耳へと飛び込んで脳を揺らし、彼女の心をどこか遠いところへ連れ去っていく。 * 「ねえ、起きて、起きてー」 そんな声で目覚めて妹が最初に感じたのは、あたりに籠もるただならぬ異臭だった。うっかりまともに吸い込んでしまい、吐き出しそうになる。 ぼやけた視界が一つの像を結ぶ。全裸の少女が妹を揺り動かしていた。顔立ちは妹よりも年上だが、雰囲気は幼い。ざらついた空気の触感が、自分も服を身につけていないことを教える。 「ここ……どこ?」 白い布の壁に包まれた狭く薄暗い空間だった。テントのようにも思えるが、支柱がない。まっすぐ立てば天井に頭が当たってしまうので、半身の体勢のまま話し込む。 「すばる様の靴下の中だよ」 「えっ、あいつの」 「こらっ、あいつなんて言っちゃだめ」 憎い女の名前が出てきたことにも驚いたが。 「どういうこと、靴下の中って」 「そのまんまだよお」 少女は笑って、人差し指を妹の目の前に立てた。 「私たちは、すばる様の指くらいの背丈しかない小人なんだよ。だから、靴下になんて簡単に入れちゃう。私たちを靴下に入れたまま、履くことだってできるんだよ。ちなみに、すばる様が与えてくれた私とあなたの住処でもあるんだよ」 「ちょ、ちょっと待ってよ」 こびと? 靴下? 妹は狼狽した。 「そんなバカげた話が……」 <ねえくるみ、彼女は起きたの?> 突如、洞窟全体を揺らす怪獣の咆哮のような、しかし年若い――妹よりは年上の――少女のものでもある声がした。妹には聞き覚えのある声だった。 それに―― (今、なんて呼んだ?) 「すばる様が呼んでる。あいさつしにいこう、ねっ」 「わわ」 くるみと呼ばれた、幼い印象の少女は妹の手を引っ張り、声の響く方へと進んでいく。習熟した様子で這い進む少女に引っ張られるまま、数メートルほど進むと、出口が見えた。白い光が差し込んでいる。 外に出ると、真っ白い光に包まれ、一時的に妹は視力を失う。しかし、ふたたび目を開けたときにはさきほどの洞窟ほどではないにしろ、光は消えあたりは薄暗い影に覆われていた。 妹たちは木目の大地に立っていた。加工された表面が裸足の裏にペタペタと張り付く。 「すばる様!」 頭上を見上げて親愛の情がこもった声を上げている少女に、つられて妹も首を上に向ける。そして、二三歩後ずさり、尻餅をついた。 「うそ」 すばるが自分たちを見下ろしている。そこまではいい。だけど、なんで――木目の大地の地平線から上半身が生えている? どうして――見上げなければ全貌を見渡せない? すばるの姿をした何かが、こちらに手を伸ばしてくる。十数メートルは向こうにいそうなのに、手が届くのは一瞬だった。会議場のテーブルよりも広い手のひらが表に向けられて、妹たちの前に置かれていた。――縮尺が、おかしい。 「大丈夫? 怖がらないで。すばるさまは大きいけど、優しい人だから」 不安にさせまいと思ったか、少女は妹に笑って手をさしのべた。 彼女に促されるまま、すばるの手のひらへと乗る。隆起と弾力があってかなり立ちにくかったが、少女の方はなれているのかそんな様子は見えない。 ぐらりと揺れ、小さな少女たちに重力がかかる。すばるが手を動かしたのだ。地面がどんどん遠くなっていく。 「きゃあっ!」 「大丈夫」 恐怖から思わずよろめいて膝をついた妹を、少女も座って抱きしめた。なんだか、懐かしい感じがした。 戦慄するのはこれからだった。すばるの大きすぎる顔がぐんぐん近づき、数メートルかと言ったところで止まる。 「ごめんね、妹ちゃん。私とくるみのことを知られるわけにはいかなかったの」 自分たちをひと呑みにできそうな口が動き、そう告げる。拡声器を何重にも通したような声だった。もはや妹は日記の内容も写真の真贋も疑わなかった。遅すぎた。 妹は、横にいる少女の顔を改めて眺めた。一週間前の姉・くるみとは、印象が違いすぎていたが――確かに、この顔を知っている。明るい光の下で見れば、間違いようがなかった。 「お姉、ちゃん……」 「うん。私はお姉さんみたいなものになるのかな、ここでの」 「そうじゃ、ない……」 まるで、妹なんていたことを覚えていないかのような言動に絶望する。本当は、同じ名前と顔を持つだけのそっくりさんなのではないか? この常軌を逸した世界では、なにもかもが信じられない。 「帰してよ、私とお姉ちゃんをここから! 出して!」 必死に叫ぶ妹とすばるを、くるみは不思議そうに見くらべていた。 「いいよ?」 再び世界が揺れ始める。すばるが歩きはじめたのだ。高速で流れ始める景色に妹は酔いそうになる。 「はい」 数十秒して、今度は体がふわりと浮きあがるような感覚がする。必死に掌にしがみつこうとするが、あっさりとその足場は傾き、妹の身体は宙に投げだされる。 「きゃああ!」 しかし、ずいぶんと地表に近付いていたらしく一メートルほどの落下で済んだ。けがといえばかすり傷を作った程度だった。 「さあ、どこへなりとどうぞ」 一面にクリーム色の格子模様の床が広がっていた。トラックのような大きさのローファーやミュールが整列している。玄関のようだった。高層ビルのようなすばるの姿もある。 「出れるものならね」 すばるの反対側には外へと通じる扉があった。カギはかかっていないらしい。ここを開ければ脱出は容易だろう――開ければ。 ドアノブの位置は、十階建ての建造物に匹敵する高さにあった。文字通り、妹は天を仰ぐ。もっとも、ドアノブをひねることができたところでUSBメモリよりも小さな人間が、何百人力を合わせたところで数メートルの厚さの巨大な鉄の塊を動かすことなど不可能だろうが。 「どうしたの? ああ、ドアノブに届かないんだね」 巨大な指が妹の首根っこを器用に摘み、あっというまにレバー式のドアノブの上に運んで乗せた。あまりの急速な上昇に妹は胃の内容物を戻しそうになる。口に酸味が広がる。 すばるの手が離れた。レバーの横幅は妹がぎりぎり立てる程度。妹の全身の体重がかかったところで、一ミリ足りとて動いたりはしない。さっきまで立っていたタイルの地表までは一メートルほどしかないはずなのに、霞んで見える。あまりにも高い。 「ひ……」 「さ、存分にどうぞ!」 ドアノブの孤島に妹を置き去りに、片手のひらにくるみを乗せてすばるは立ち去ろうとする。 「ま、待って!」 「ああ、そうそう! 私、鍵をかけていないから。あなたみたいな急な来客があったら、振り落とされちゃうかもね!」 とても楽しそうな声、それの意味するところを理解し、妹は小さな体を竦みあがらせて悲鳴を上げる。 「助けて、助けて! お姉ちゃん、助けてよ!」 呼ばれた『姉』くるみは痛みを知った表情で、困ったようなまなざしを向けるだけだった。この世界は、誰もが無力だった。すばるが、世界だった。 戻る 次へ |